旅も人生も、もっと楽しく編集できる。

雪舟が描いた国宝『天橋立図』をガイドに日本三景の天橋立を歩く

Array
2020/11/04

宮津市を旅していると、旅館やお土産物屋さんに飾ってある雪舟の『天橋立図』を目にすることはありませんか?

雪舟は日本三景のひとつ天橋立を描いたことがあるんだなぁ……と、漠然と知っているかたはいらっしゃると思います。ところがこの絵、実は謎だらけのミステリー絵画だということをご存じでしょうか??

国宝である『天橋立図』は、普段は京都国立博物館が所蔵していますが、10月31日(土)~11月23日(月・祝)まで、宮津市にある京都府立丹後郷土資料館に生誕600年記念で公開されるそうです。

そこで今回は里帰り記念!『天橋立図』と現在の風景を比べながら町を歩く“雪舟「天橋立図」を旅する” WEBサイトの管理人・森美忠さんに、この絵に隠されたさまざまな「謎」についてうかがいました。

※サイト内で使用している『天橋立図』はすべて京都国立博物館所蔵。

天橋立は平安貴族や将軍様も憧れた人気観光スポット

日本三景のひとつ・天橋立。全長約3.6km、幅20~710mにもおよぶ真っ白な砂浜に松並木が続く風光明媚な土地として有名です。

しかし、この美しい地を好んだのは我々だけでなく昔の人も同じ。平安時代の都人が歌枕としても数多く和歌に詠み、室町時代には将軍・足利義満が6度も訪れ、文珠山からの眺めを「宇宙の玄妙」と称え、大絶賛したと伝わっています。

国宝「天橋立図」 京都国立博物館所蔵

そんな、みんなの憧れの地、天橋立を描いたのが、室町時代に活躍した水墨画家・雪舟(1420~1506年ごろ)です。雪舟のことはよく知らなくても、小僧時代に自分の涙を使い足で床に描いたネズミが動き出した、という逸話なら知っている人も多いのでは?

一説によると、雪舟がこの『天橋立図』を描いたのは最晩年の82歳ごろ!しかも当時、住んでいたのは周防(山口県)。

天橋立には船で来たとしても80歳前後のかたがなぜ、はるばる宮津まで来たのでしょうか?そこまでして風光明媚な場所を描きたかったから……?謎は深まるばかり。これはいてもたってもいられません。早速、森さんにお話をうかがいました。


この絵のように見えるポイントがない!?

森さん:この絵(冒頭の『天橋立図』画像を参照)の驚くべきは、この風景が見えるポイントが実在しないということです。

――えっ、どういうことですか!

海岸線の正確さやポイントの細かさから、この地をくまなく歩いたことは確かだと思うのですが。

――ほんとですね。海岸線なんか現在の写真とそっくり。江戸時代に日本各地を歩いて測量し、精巧な日本地図を作った伊能忠敬もびっくりですね。

そうですよね。ですが、この絵を描こうとすると対岸の粟田半島の山から見ることになるのですが、天橋立を上から俯瞰し、さらに宮津湾が奥まで見える構図にしようとすると上空900mまで上らないといけないんですよ。ところがあの山は200mぐらいしかないのです。

『天橋立図』の構図に似ていることから「雪舟観」と呼ばれている天橋立雪舟観展望休憩所からの景色

――まさか空を飛んだとか?

山は登ったかもしれませんが、どうも各地を取材してスケッチし、頭の中で天橋立の全体像を思い描きながら、その全貌がわかるように再構築して畳一枚分ぐらいの絵にしているのです。雪舟の画力のすごさを感じさせられますね。

そしてこの絵は完成形ではなく、20枚もの紙を継いで描いた“下絵”なんです。

――これ、完成形ではないのですか⁉こんなに美しいのに。

そう。本絵は残念ながら行方不明なんですよ。

雪舟観スポットについてはこちら↓

【エリア別】京都・写真映えでも期待が高まるツツジの名所7選

雪舟はスパイだった?!

そして誰がこの絵を発注したのかも、記録が残っていないんです。しかも雪舟の落款(書・絵画などに押す印)もないんですね。ですが、絵のタッチからしてこれは雪舟に間違いないということで国宝に指定されています。

――恐らく雪舟だろうという下描きが国宝ですか……。では雪舟は画家として風光明媚な景色を描きたかったと。

それも謎なところです。ただ雪舟は48歳のころ、パトロンであり周防(山口県)を治めていた大内氏から命じられ遣明船で中国へ渡り、3年間も現地で記録画の作成をしています。

帰国してからも美濃(岐阜県)に行ったりしていますから、雪舟は大内氏の命令で諸国の情報を収集して描いていたようですね。ですから雪舟をスパイだという人もいるんですよね。

――なんと雪舟がスパイ活動を!?当時はカメラがないから絵で描いて報告すると?

ですが、その記録も大内氏側にないのです。もしかしたら宮津をおさめていた一色氏が発注したのか?とも思いますが、一色氏側にも雪舟に絵を発注した記録はないんですね。だから雪舟は宮津に極秘で来ていたのではないか?と言われています。

この絵が描かれたのが1500年ごろ。ちょうど応仁の乱のあとぐらいですね。まだ世の中が乱れており、大内氏が京に攻め上ってくるのではというウワサもありましたし、逆にいつ一色氏が大内を攻めてくるかも分からない時代です。

――ちょうど『麒麟がくる』の前の時代ですね。でも、記録がないのに、どうして描かれたのがそのころということが分かるのですか?

『天橋立図』の中に多宝塔が見えます。
現在の知恩寺の多宝塔

ほら、ここ(上の写真)。智恩寺の多宝塔が描かれていますが、この塔が建てられたのが文亀元(1501)年なので、それよりも前には描かれていないということなんです。

――なるほど。そうやって見ていくと、いろいろな発見がありそうですね。


本当に描きたかったのは天橋立ではない?

今より寺社や家が多くて、びっくり。

そうなんですよ。よく見てください。ほかに何か気が付きませんか?

――うーん、寺社仏閣や家が結構、立っていますね。

そう。『天橋立図』といいながら、実は天橋立ではなく、その向こうに見える府中の町並みを描いているんです。

ここに描かれているのは宮津の中でも“府中”と呼ばれる地域です。府中とは奈良~平安時代の律令制で国ごとに置かれた“国府(地方行政府)”があった地のこと。つまり現在でいうと県庁所在地ですね。国府付近には国分寺なども置かれました。また中世には守護所もあったそうで、ここは古くからとても重要な地なんです。

――なるほど。だから、もしかしたらスパイとして重要地域を描いていたと。

国分寺跡からの眺め。ベンチに座って天橋立を眺めれば、天平人が国府を置いた理由が分かるはず!

実際のところは分かりませんが、もしかしたら軍事目的で府中を描くことを命じられていたのかもしれませんね。このころ、不審に思われずに自由に旅ができたのはお坊さんだけですからね。

――そうでした。そもそも雪舟はお坊さんなのでした。

道端で絵を描いていたら何奴ってなりますからね。こっそり来て、着いてから雪舟だと名乗ったかもしれませんね。

――「どうしても見たくて、こっそりきちゃいました」って有名な画家でお坊さんに言われたら歓迎されそうですもんね。それにたとえ軍事目的だったとしても美しい絵にしてしまえばカモフラージュできそう。

そうそう。このような絵なら軍事的に見て、どこの守りが厚そう、薄そうというのが分かりますからね。

いま読まれてます
雪舟が描いた国宝『天橋立図』をガイドに日本三景の天橋立を歩く
この記事が気に入ったら
いいね!しよう
TRiP EDiTORの最新情報をお届け
TRiPEDiTORオフィシャルメルマガ登録
TRiP EDiTORの最新記事が水・土で届きます