家康に愛された英国人サムライと、終焉の地「長崎・平戸」との切ない関係

image by:角谷剛

真田広之さんがプロデューサー兼主演を務める時代劇テレビドラマ『SHOGUN 将軍』がアメリカで大人気です。シーズン1が終了した時点で、エミー賞の史上最多25部門にノミネートされています。エミー賞はアメリカの優れたテレビ番組に贈られる最も有名で権威のある賞です。

『SHOGUN 将軍』は、ジェームズ・クラヴェルの1975年の同名ベストセラー小説が原作です。1980年にテレビドラマ化されて大きな話題を呼び、今回はそのリメイク版でもあります。

この物語の重要な登場人物のひとり、ジョン・ブラックソーンは三浦按針ことウィリアム・アダムスという名の実在の人物がモデルです。

史実では、アダムスは英国の船乗りでしたが、オランダの商船団に航海士として参加し、戦国時代末期の日本に漂着しました。その後は徳川家康に仕え、現在の神奈川県三浦郡に領地を拝領する旗本になりました。

しかし、アダムスはその拝領地に長く留まることはなく、英国への帰国を願いつつも現在の長崎県平戸市でその数奇に満ちた生涯の幕を閉じました。

故郷の妻子に会うことを願い続けた漂流者

平戸港と帆船のモデル image by:角谷剛

初めてのヨーロッパ人サムライと呼ばれることもあるアダムスですが、それは必ずしも本人が目指していた人生ではありませんでした。極東へ向かうオランダ商船団の一員として乗り組んだリーフデ号が現在の大分県に漂着したのは1600年。関ケ原の戦いが始まる約半年前のことでした。

長崎県のテーマパーク「ハウステンボス」にリーフデ号のレプリカが展示されています。3本マストの帆船です。

商船団の航海は苦難を極めました。5隻の船のうち4隻が航海中に沈み、唯一日本に辿りついたリーフデ号も、約2年間の航海で乗組員110名のほとんどが死亡しました。日本漂着時の生存者は僅か24名。そのうち自力で歩くことができた者は6人のみでした。アダムスはそのひとりです。強靭な意志と頑健な肉体、そして類まれな幸運の持ち主だったのでしょう。

アダムスはやがて徳川家康に見出され、外交顧問として仕えました。航海術や造船技術の専門知識も重宝されました。やがて旗本に取り立てられ、三浦按針という名乗りも与えられました。三浦は所領地の地名(現在の神奈川県三浦郡)、按針とは航海士を意味する言葉です。


アダムスが日本に滞在した年月は20年にも及びました。しかし、日本に骨を埋めることは本意ではなく、最晩年まで英国への帰国と家族との再会を望んでいたようです。江戸でも三浦でもなく、海外貿易の窓口だった平戸で亡くなったのも、そこから帰国するための船を見つけようとしていたためと思われます。

平戸港を出港していく船 image by:角谷剛

アダムスがジャワ島に住む英国人に向けて送った英文の手紙が残されています。そこには「何卒私が日本にいることを哀れな私の妻と2人の子どもに知らせてください。妻は未亡人のように、子どもたちは父なし子のように暮らしています。それだけが私にとって心からの悲しみなのです」(筆者訳)といった意味の言葉が切々と綴られています。

三浦按針の墓(長崎県平戸市)image by:角谷剛
三浦按針夫婦塚 image by:角谷剛

平戸市はアダムスの望郷の念を憐れみ、英国にある妻の墓地から小石を取り寄せて、三浦按針の墓の隣に夫婦塚を建てました。司馬遼太郎氏は著書『街道をゆく 11 肥前の諸街道』のなかで、そのエピソードを平戸人たちの優しさと紹介しています。

もっとも、アダムスは所領地の三浦で妻を娶り、死後は長男のジョセフがその後を継いでいます。平戸から遠く離れた土地に置き捨てられた女性やその子孫たちがアダムスとの運命をどう感じていたのかは想像するしかありません。

司馬遼太郎氏が「日本」を見出した小さな島

平戸港フェリー乗り場周辺 image by:角谷剛

司馬氏は平戸へはフェリーで渡りました。1977年4月に平戸大橋が開通する直前でした。現在ではこの橋のおかげで平戸島は九州本土と陸続きになりましたが、それより以前は船で海峡を渡らなくては行き来できない離島でした。もちろんアダムスも船でこの島にやってきたはずです。

戦国期から江戸時代の始まりにかけて、平戸は長崎にその座を奪われるまで、海外貿易の一大拠点として賑わいました。まずはポルトガルやスペインからカトリック教の宣教師や貿易船がやってきて、後にオランダやイギリスのプロテスタント教国が次々と商館を開きました。

教会と寺院が見える散歩道 image by:角谷剛

平戸は坂ばかりの土地です。港付近のわずかな平地にオランダ商館や松浦史料博物館などの観光スポットがひしめいています。坂を上ると多くの教会や寺院があり、アダムスが眠る崎方公園もやはり坂の途中にあります。

平戸城 image by:角谷剛

港の向かい側の丘には、司馬氏が「景観の中の城として日本でもっとも美しい」と評した平戸城が見えます。箱庭のように美しく、そして小さく、しかしどこに行くにしても坂を上り下りしなくてはならない街です。

司馬氏の最後の長編小説『韃靼疾風録』は平戸の武士が主人公です。島に漂着した満洲族の姫を故国へ送り届けるために海を渡り、万里の長城を越えて、清国成立の歴史に関わるという壮大なロマンです。

広大な大陸の乾燥した大草原と対比するかのように、主人公が望郷の念にかられる平戸は緑が濃く、水蒸気に満ちた桃源郷のように描かれています。

司馬氏は平戸という土地とそこに住む人々をある意味で日本の典型として捉えていたのではないか。私はそんな風に感じています。

平戸港に昇る朝日 image by:角谷剛

甘やかされた現代人の視点からすると、平戸は今でもアクセスが便利な土地とは言えません。平戸観光協会の案内によると、佐世保駅から路線バスで1時間30分、あるいは博多駅との間で高速バス(約2時間40分)が1日に2回往復しています。

私も行きを前者、帰りを後者のルートを取りました。乗り換えの待ち時間なども含めると片道に半日ほどかかるため、港近くのホテルに一泊しました。それだけの価値はあり過ぎるほどありました。また機会を見つけて再訪したいと考えています。

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