「女子高生」のスカートの長さと景気の良しあしは連動しているという説があります。そのくらい、女子学生のスカートには、世の中の関心度が高いのかもしれません。
では、この女子学生のスカートには、どのような歴史があって、丈の長さについては、どのような移り変わりがあったのでしょう。今回は、さまざまな情報源を基に、「女子学生のスカートの歴史」をまとめてみました。
くるぶしまで隠れるロングスカートから
「女子高生(JK)のスカート」と言われると現在、いろいろなイメージが連想されるかと思います。単純に、学校に着ていく制服という本来の役割が1つ。さらには、制服の要素を取り入れた私服も存在するくらいですから「かわいさ」の象徴になっている側面もあるはずです。
さらに、日本について詳しい研究者のSharon Kinsellaの論文「What’s Behind the Fetishism of Japanese School Uniforms?」によると、日本の女子高生が着用する制服は、性的関心の対象になっているとの指摘もあります。
望むと望まざるとに関係なく、スカートの制服を着用すれば、パンツスタイルの制服を着用した時とは異なる動作が着用者に発生します。
その動作や振る舞いが、スカートを着用する女子生徒の印象に影響を与え、倫理性、女らしさなどの性差別的なイメージを見る側に生じさせます。
そのイメージが、1960年~1970年代にメディア作品に極端な形で描かれるようになり「女子高生」の制服に性的なイメージがどんどん乗っかってきたとの指摘です。この分析について「分かるー」と激しく共感できる人も多いのではないでしょうか。
そんな日本の制服、女子学生が着用するようになった時期はそもそも、いつごろなのでしょう。
論文『近代日本における女子学校制服の成立・普及に関する考察』によると、明治時代から昭和戦前期にかけて女子学生の制服は、和装と洋装を行き来しながら、セーラー服、ブレザーと現在に近いスタイルに落ち着いていった歴史があると言います。
具体的には、1875(明治8)年に開校した東京女子師範学校(現・お茶の水女子大学)を始めとする各地の師範学校の女子部で女子学生の制服(はかま)がスタートします。
そもそも、明治初期の教育現場では、女子向けの中等教育機関(現在の中・高)が整備されていませんでした(女子向けの中等教育機関である高等女学院は1899年・明治32年発足)。
ただ、旧制の「小学校」(尋常小学校)を卒業した女子エリートの受け皿として師範学校(先生になるための学校)が存在し、格上の存在として女子高等師範学校も設置されていました。
その女子高等師範学校の1つである東京女子師範学校では制服としてはかま、および和装が当初採用されていました。
しかし、欧化政策を明治政府が積極的に進めた「鹿鳴館(明治政府がつくった社交場)時代」になると、東京師範学校女子部(前・東京女子師範学校、現・お茶の水女子大学)で1886(明治19)年、鹿鳴館スタイルとも呼ばれるバッスルスタイルの洋装が制服に採用されます。
バッスルスタイルは、19世紀末にフランスで流行した女性の衣装で、大きく膨らんだロングスカートが特徴的です。そのロングスカートが採用されたので、女子学生(現代の女子高生とは厳密には異なる)の制服は最初、くるぶしまで隠れるロングからスタートしたと考えればいいのですね。