明治の余韻。日本の偉人たちに愛された「大磯別荘街」を訪ねて

神奈川県の西南に位置する大磯は、目の前に広々とした海が開け、すぐ後ろには丹沢へと続く美しい緑あふれた山々が連なる自然に恵まれた町です。

大磯と聞けば、すぐに「大磯ロングビーチ」を思い浮かべると言う人も少なくないと思いますが、それもあながち間違いではありません。というのも、大磯は日本における海水浴場発祥の地なのですから。

大磯別荘文化の始まり

都内から電車で1時間ちょっと。大磯の駅を降りると緑豊かな山を背景にのどかな風景な広がる。

今や、夏ともなれば湘南の海岸には海の家がずらりと並び、ビーチは海水浴を楽しむ人々の姿であふれかえりますが、そのはじまりは1885(明治18)年に、順天堂を開いた佐藤泰然氏の次子であり初代陸軍軍医総監にも就任した松本順氏により大磯海水浴場開設されたことにあるのです。

当時の海水浴は、潮流で身体に刺激を与え海辺の清涼な空気を吸うことを指し、泳ぐというよりもいわば潮湯治のようなもの。

今のように、水着姿の男女が思い切り青春を楽しむ場となったのは、それから1世紀近くも後のことですが、この松本順氏による海水浴場の開設により、明治政府高級官僚や旧公家・大名らがこの地に別荘の所有をはじめたのが、近年史における大磯の別荘文化のはじまりです。

政財界のビックネームのオンパレード。まるでそのまま永田町な大磯の住人たち

ちなみに、一体どんな人たちが大磯に別荘を構えていたのか?というと、幕末には土佐藩の藩士として、明治になってからは政治家として活躍した後藤象二郎、明治時代の外交官であり特に日英同盟の終結に尽力したことでその手腕が知られる林董、総理大臣も務めた吉田健三山縣有朋、三菱財閥二代目の岩崎弥之助、大成建設の創業者であり鹿鳴館、帝国ホテル、帝国劇場などの設立にも関わった大倉喜八郎、旧土佐藩主家当主であった山内豊景や、旧尾張藩主家当主の徳川義禮など、歴史の教科書に名を連ねるそうそうたる人物名が並びます。

外務大臣の陸奥宗光伊藤博文大隈重信らも邸宅を構え、結局、大磯にはなんと8人もの日本の総理大臣が邸を構えていたことになるのです。

別荘と別荘の間の小径。その昔は134号線もなく、まっすぐ歩いて行けばまもなく海へと続いていった道。

当時の日本を動かす面々の邸宅がずらりと同じ町内に並ぶとは、ちょっと一般市民の私たちには想像できない風景ですね。朝の散歩に出かけると日本を動かす傑士の有名著名人がウロウロしているという図です。うかうか近所の居酒屋に飲みに出かけたら、行った先でどんな人に出くわすか気がきじゃありません。

と、そんな心配などしなくても彼らの住む家はそれぞれに趣向を凝らした大邸宅ですから、わざわざ町内を歩きまわらずとも自分の家の敷地を歩けばいいわけだし、社交には居酒屋でなくそれぞれの家でご馳走やお酒が振舞われていたことと思いますが。


当時は町の様子も今とは大きく異なり、海側を走る国道134号線がまだありませんでした。旧東海道から海岸沿いには、プライベートビーチを要する形で大豪邸がずらりと並んでいたのです。

歩道橋の上から眺めた旧東海道。沿道には今でも大きな松の木の姿を見ることができる

御茶ノ水のニコライ堂や鹿鳴館を設計したことで有名な建築家のジョサイア・コンドルもここに大きな邸宅を構えていたそう。

純和風の屋敷もあれば、西洋建築を取り入れたハイカラな洋館もあり、想像しただけでも壮観です。さぞかし優雅で華やかな街並みであったのだろうと思われます。

家々の間から覗く大きな屋敷も別荘時代の名残りのひとつ

大磯のランドマーク的存在、住民から「三角屋敷」として親しまれる大正モダンな洋館

特に当時の洋館として完璧な形でその姿を残すのが、大磯駅前にある「大磯迎賓舘」。

夢に思い描く洋館そのままの「大磯迎賓舘」は大磯のランドマーク的存在。(写真クレジット/大磯迎賓舘)

旧木下家の別荘であったこの建物は、日本初のツーバイフォー工法によって1912(大正元年)に完成した築100年を超える洋館です。

現存するツーバイフォー住宅としては、日本最古。海へと続く坂の上に建ち、ちょうど三角的の角になった土地をうまく利用したこの洋館は、小さいながらパッと目をひく瀟洒なデザインで、玄関へと続く長いアプローチや、両側に配された六角形の部屋がアクセントとなった実にフォトジェニックな佇まいです。

絵本の中に登場する洋館そのもので、バラの花が咲く美しく手入れされた庭を歩いているとイギリスの片田舎にでも迷い込んだような気分になります。

現在は、旧館の裏に建てられた開放感あふれるダニンングで新鮮な土地の素材を活かしたイタリアンをいただくことができるので、大磯散策の際はぜひ立ち寄ってみて。

レストランの利用はもちろん、洋館の内部を見学することも可能。当時の大磯に別荘を構える人々のライフスタイルを鱗片だけでも覗いてみてはいかがでしょう。


実は無類の薔薇好き!? 吉田首相の以外な一面に触れる旧吉田邸

また旧東海道を大磯警察署に向かって歩いていると左手に、こんもりと山のように盛り上がり木々が生い茂る一角に出会いますが、ここは旧吉田茂邸があった場所。

公園として一般公開されている旧吉田邸の和庭園

吉田邸自体は残念ながら2009年の火事で焼失されてしまいましたが、県立大磯城山公園として兜門(サンフランシスコ講和条約締結を記念して建てられた門で、別名「講和条約門」とも。

軒先に曲線状の切り欠きがあり、兜の形に似ていることから「兜門」と呼ばれています)や心字池、日本庭園などの庭園部分が開園され、町民のお散歩コースとなっています。

平成21年の火災での焼失を免れた貴重な兜門

外国から貴賓を招くため、吉田茂は私財を投じてこの邸宅を建てましたが、その規模なんと約1万坪!全焼した屋敷は300坪の純日本風総檜造りだったそうです。

入り口付近には吉田茂が愛したという薔薇苑の一部が今も残り、季節になると美しい花を咲かせます。

吉田茂が薔薇好きだったとは、ちょっと意外に思う人も多いのでは? 実は、この旧吉田邸は神奈川県と大磯町のプロジェクトとして復旧工事が進んでいます。来春には一般公開予定なので、そちらもお楽しみに。

庭園内の見事な竹林

文豪・島村藤村の家は古き良き時代を偲ばせる純日本家屋

旧東海道に沿っては大きな屋敷跡が続く大磯ですが、山側や線路の周辺はまた異なる景観の町並みを楽しむことができます。

もともと政治家や財閥、高級官僚らの別荘地であった大磯も時代の流れとともにだんだんと中産階級者が目立つようになり、関東大震災以降は、中間層所有の中小規模の和風建築が目立つようになりました。

文豪、島村藤村が最後の2年半を妻と暮らした家も、そんな素朴な純和風の日本家屋

東海道線の線路からほど近く、住宅地に佇む島崎藤村邸

政財界のビックネームたちの目を見張る大豪邸とは異なりますが、こちらもまたなかなか風情のある趣で、そのまま小説に登場しそうな佇まいです。

藤村邸に飾られた藤村全集

緑に彩られた庭と、縁側を抜ける風が心地よく、8月の真夏に亡くなった藤村が、最期に「涼しい風が吹いてくる」という言葉を残したというのもうなずけます。

藤村邸の時計、藤村が亡くなった時刻をさしている

大磯の瀟洒な別荘物語は調べれば調べるほど奥が深く、邸宅の数だけそこに関わる人間たちの物語が存在します。

有刺鉄線が張られ今では住む人もいない瀟洒な洋館の姿

時に物語には衝撃の事実が隠されていたり、物語と物語が複雑に絡み合い壮大な歴史物語を生んだり、また主題から離れたサイドストーリーの物語へとひきこまれていくことも。

興味がある人はぜひご自分で調べてみると、思わぬ物語との出会いが期待できるのではないでしょうか。

大残念ながら関東大震災で多くの屋敷が倒壊。その復旧が進まぬまま、日本は戦争時代へと突入していくことになったのですが、大磯の町を歩いていると、今でもところどころ別荘時代の優雅な街並みを垣間見ることができ、まだ見ぬ未知の物語へと案内してくれます。

  • image by:小林繭
  • ※掲載時の情報です。内容は変更になる可能性があります。
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