渋谷・道玄坂の由来は山賊だった? ハチが愛した渋谷の地名散歩

東京の地名の由来と、それにまつわる歴史やトリビアなどをご紹介する企画シリーズ「東京地名散歩」。

前回、静寂の街「愛住町」を訪れたライターの未知草ニハチローさんが、第2弾は、街のシンボル「ハチ公」がある渋谷を散策しました。いまでは国内のみならずとも、海外からも多くの観光客を迎えいれる忙しいこの街の歴史をたどります。

※本記事は現段階でのお出かけを推奨するものではありません。新型コロナウィルスの国内情報および各施設などの公式発表をご確認ください。

渋谷のシンボル「ハチ公」こと秋田犬ハチ

いつもにぎわう渋谷駅前・ハチ公口

世界的に知られる渋谷のシンボル、ハチ公こと秋田犬ハチ(大正12=1923年~昭和10=1935年)の足跡を訪ねる地名散歩に出ました。スタート地点は常に内外の観光客が集まっている渋谷駅・ハチ公像の前。ちなみにハチ公像の住所は渋谷区道玄坂2丁目です。

休日ともなるとハチを撮影する人の波は途切れない

ハチ公像の目線の先にはハチの子ども時代をモチーフにしたレリーフが外壁を飾るJR渋谷駅の駅舎(ハチ公口)がありますが、その住所は道玄坂1丁目。道玄坂はスクランブル交差点の先のほうにある坂道そのもののイメージが強いので、意外な感じがするかもしれません。でも道玄坂地区は、渋谷駅からすでに始まっているのです。

渋谷駅ハチ公口の壁を飾る子犬時代のハチの一家

そして現在の渋谷駅は、実は2代目です(駅舎の建物は改築・改修を何度もしているが)。大正9(1920)年に、初代駅舎(明治18=1885年竣工、現在の埼京線渋谷駅ホームのあたり=渋谷3丁目)から数百メートルほど離れた現在地に移転しています。

渋谷駅は100年に1度の大改造の真っ最中

ハチは現在の渋谷駅誕生の3年後に生まれ、翌年の大正13(1924)年1月、生後3か月のときに、愛犬家で東京帝国大学教授だった上野英三郎博士(農学博士)に引き取られています。大学への通勤に渋谷駅を使う上野博士を送り迎えするため、上野博士の自宅(現在の松濤1丁目、詳細は後述)と渋谷駅の間を往復するようになったのは、大正13年の後半頃からではないかと推測されます。

道玄坂の由来は、山賊となった武士からきてる?

それはともかく――。渋谷区の現在の地名(住居表示)の多くは昭和40年台に変更されたもので、近代以降に何度も行われた地名変更と合わせ、由緒ある地名の多くが消えました。しかし道玄坂は、やはりハチにゆかりの松濤神山町宇田川町富ヶ谷などと同様に、地名変更の波をくぐり抜け、その由来を今に伝えています。

道玄坂の地名の由来については諸説あります。なかでも室町時代に大和田太郎道玄という武士(鎌倉時代の武将・和田義盛の家来の子孫)がこの地で山賊となって恐れられいつしか道玄坂と呼ばれるようになったという江戸名所図会の解説がいちばんピッタリきます。

夜でも明るい道玄坂を見たら大和田道玄もさぞかし驚く!?

道玄坂に限らず、近世以前の渋谷は昼なお暗い谷や森、高低差の多い湿地帯に覆われた場所が多く、まさに山賊が隠れ住むにはふさわしい環境だったのです。


道玄坂では今もときどき「昼なお暗い雰囲気」が垣間見られる

また道玄坂地区と玉川通りを挟んで反対側の桜丘町地区に立地し、プラネタリウムのあることでも知られる渋谷区の公共文化施設「文化総合センター大和田」の名称は、旧大和田小学校の跡地にできたことに由来しています。

かつて東急文化会館(渋谷ヒカリエの前身)のプラネタリウムで使われていた星座の光学式投影機(文化総合センター大和田)

さらに現在の南平台町地区から桜丘町地区にかけての地域は、昭和45(1970)年の変更以前の地名が大和田町でした。この大和田も大和田道玄から採られたとする説が有力です。道玄さんは当時の人々によほど恐れられた山賊だったようです。

「文化総合センター大和田」のあたりも昔は山賊・道玄のナワバリ

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