日本を感じられる観光スポットやグルメなど、世界中から多くの観光客が訪れる人気観光地・京都。魅力的で日本を感じられる素敵な場所が多いなか、必ず行くといっていいほど定番なのは、金閣寺や銀閣寺ですよね。
実はそのふたつとは別に、「銅閣寺(どうかくじ)」もあるのだとか!今回はメルマガ著者・英学(はなぶさ がく)さんが、ご自身のメルマガ「おもしろい京都案内」で、謎に包まれた銅閣寺について詳しく解説してくれています。
京都には「銅閣寺」もある?
京都には金閣寺、銀閣寺のほかに銅閣寺があるのをご存知でしょうか?
実は、昭和の初めに銅閣を造ってしまった人がいるのです。この銅閣寺の正式名称は「大雲院(だいうんいん)」といいます。通常非公開なので一般にはあまり知られていませんが、最近は夏に特別公開となり、中に入れるチャンスがあります。
今回は、そんな不思議な銅閣寺をご紹介します。
通称・銅閣寺は龍池山 大雲院は1587(天正15)年に織田信長、信忠親子の菩提を弔うために正親町(おおぎまち)天皇の勅命により建てられたお寺です。寺の名前は信忠の戒名の院号・大雲院から取ってつけられました。
創建当初の大雲院は御池御所、現在の烏丸二条の位置にありましたが、豊臣秀吉が寺町四条に移転しています。そして1973(昭和48)年に現在の祇園・東山界隈の位置に移転しました。
大雲院が昭和になって移転してきたこの場所はもともと大倉喜八郎の別荘でした。大倉喜八郎は一代で巨万の富を築き、大成建設や鹿鳴館、帝国劇場、帝国ホテルの創始者でもある人物です。
現在の大雲院はもともと、大倉喜八郎氏の別邸・真葛荘(まくずそう)の一部だったのです。大倉喜八郎氏は、「金閣も銀閣もあるんだから、銅閣も作る!」と京都の名物にすることを考えて銅閣を建てたそうです。
銅閣寺のモチーフは「祇園祭の山鉾」
設計者は、当時築地本願寺や平安神宮を設計した昭和初期の代表的な建築家・伊藤忠太です。伊東忠太は祇園祭の山鉾をモチーフにし、その形から「祇園閣」と命名されました。屋根は銅板葺きにされており、まさに銅閣が1928(昭和3)年に建てられました。
その後、1973(昭和48)年にこの場所へ大雲院が移転してきたので、「祇園閣」は大雲院の所有となりました。銅閣を有するのは大雲院ということになり、大雲院=銅閣寺ということになったのです。これが銅閣寺の誕生秘話です。
入口に掲げられている「祇園閣」の文字は西園寺公望が書いたものだといわれています。祇園閣は高さが36mもあり楼上からの眺めは360度の絶景です。市内を見渡せる数少ない絶景ポイントです。
大雲院の境内には墓所があり、織田信長親子の墓もあります。京都には信長の墓はほかにも、大徳寺の総見院、本能寺、阿弥陀寺、妙心寺の玉鳳院にあります。また、江戸時代の大泥棒で有名な石川五右衛門の墓も大雲院にあるのです。
祇園閣は八坂神社からほど近い「ねねの道」の1番北側の端にあります。意外と知られていませんが、信長の息子の墓所なのです。特別公開のときにぜひ、大雲院の祇園閣の最上階からの眺めを堪能してみてください。
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