2020年大河ドラマをより面白く見るための「細川幽斎」予備知識


田辺城籠城戦&幽斎ゆかりのスポット紹介

舞鶴といえば、自衛艦赤れんがパークが有名ですが、京情緒あふれる歴史的スポットもあります!今回は田辺籠城戦ゆかりのスポットや、イベント、幽斎ゆかりのお寺をご紹介します。

幽斎が築城した田辺城の歴史を辿る@田辺城資料館と舞鶴公園

資料館と公園の見どころを田辺城資料館・館長の吉岡さんに案内していただき、素朴な質問に答えていただきました。

舞鶴公園。園路や芝生の下には幽斎の屋敷が眠っている?

-田辺城の「田辺」とは?舞鶴は元々田辺と呼ばれる土地だったんですか?

はい、地域名に由来して田辺城という名前が付いています。別名、舞鶴城とかいて「ぶがくじょう」とも言われていたんです。明治の版籍奉還の際、お城の名前をとって、舞鶴となりました。

-幽斎がつくった田辺城はどんなお城だったんですか?城下町もあったんですか?

はい城下町もありましたよ。模型(上の写真)でみると舞鶴湾とお城の間にありますね。田辺城は舞鶴湾のすぐ傍に位置し、湿地や川に囲まれた場所に立っていた平城です。このような場所にお城を作るため、川の流れを変える大規模な土木工事を幽斎が行いました。

舞鶴公園が整備される前の昭和10年頃の本丸櫓台

水辺の城作りの名人・光秀もいろいろとアドバイスしたようですね。完成するのに10年もかかったんですが、残念ながら、今では細川時代の建物は残っておらず、天守台の石垣のみ残っています。

-石垣の石の色が様々ですね。まだ江戸時代のお城のような石垣の作り方も確立してなく、さらに石の供給体制も整っていない時代でしたよね?石はどこで調達してきたんでしょう?

舞鶴公園内、復元城門近くに天守台の遺構が見られます

はい、この石は舞鶴の博奕(ばくち)岬周辺から赤みがかった花崗岩の自然石や割石を船で運びました。

江戸時代に積まれた石垣には切り出して加工したタガネの痕が残る石材がみられます。

整備された井戸の跡

-ほかに幽斎を感じられる場所って残っていますか?

幽斎らが飲んでいた井戸の跡(上写真)はありますよ。一部を発掘して確認したあと、保存のために埋め戻しているんですが、掘ると今でも水は枯れていないんです。

城跡内の庭園、心種園の一画にある現在6代目の「古今伝授の松」です。幽斎が古今伝授を終え、田辺城開城の際に松を植え「古今伝授 玄旨」と書いた札を掛けさせたという言い伝えにちなんだ松が今日まで残ります。

ミニコラム⑥●今はなき大手門を古写真で見る

宮津城大手門

現在の田辺城跡城門(大手門)は平成4年に建てられたものです。幽斎の頃の門は写真でご覧いただきましょう。

幽斎が宮津城を焼き払った後、新しい支配者・京極氏によって再建された宮津城の大手門は、田辺城から移築されたものといわれています。(京都府立丹後郷土資料館 森島さん)

復元された田辺城の城門

-幽斎の後はどんな城主(田辺藩主)がいたのでしょう?

幽斎のあとは、京極氏が4代、廃藩置県までは牧野氏が10代続きました。資料館ではそれぞれの城主についての解説もしています。

牧野氏は一番長い間、城主として町の発展に貢献したということもあり、地元では大変有名なんですよ。

牧野家に伝わっていた江戸時代初期の甲冑も展示されています。総重量約23キロ。

応相談で、実際に兜と面頬(めんぼお)を付けてみる体験もできますよ。

  • 田辺城資料館
  • 京都府舞鶴市字南田辺15-22
  • 0773-76-7211
  • JR西舞鶴駅から徒歩10分
  • 大人200円、学生100円
  • 月曜休館(月曜日が祝日にあたる場合はその翌々日)、祝日の翌日、年末年始
  • 9:00~17:00

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