ウズベキスタンと東京五輪のホストタウン「舞鶴市」の感動の実話に迫る

日本人抑留者が残したウズベキスタンの名建築「ナヴォイ劇場」

意外に知られていない!シベリア以外の抑留地もあった?

舞鶴引揚記念館内、抑留生活体験室

「シベリア抑留」という言葉、一度は耳にしたことがある方が多いと思います。1945(昭和20)年8月15日、第二次世界大戦が終結した後、23日までソ連軍との戦闘は続き、ソ連軍は満州(中国東北部)や当時日本の領土だった朝鮮半島や南樺太に進軍してきました。その際、多くの日本兵や民間人はシベリアをはじめとする中央アジアにあるソ連領内の様々な地域に連行されることになります。

舞鶴引揚記念館内、シベリア抑留者が暮らしていた施設の模型

人々は過酷な労働環境のなか、土木工事や森林伐採、鉄道の建設、建物建築などの重労働を強いられ抑留されることになるのです。その数は60万人ともいわれ、ウズベキスタンには約2万5,000人の抑留者が送られました。

一生懸命に働く日本人抑留者に心打たれたウズベキスタンの人々

ウズベキスタンの紙幣にも描かれているナヴォイ劇場

ウズベキスタンへ送られた抑留者たちは、水力発電所や学校などの建設に従事しましたが、なかでも最重要任務となったのは「ナヴォイ劇場」というオペラハウスの建設。こちらの劇場は457名の抑留者「第4ラーゲル隊」とウズベキスタンの人々と共同で1945年~47(昭和20~22)年にかけて建設工事が行われました。

舞鶴引揚記念館の展示より、抑留中の食事

劣悪な労働環境のなか、手を抜くことなく一生懸命働く日本人の姿に心打たれたウズベキスタンの人々は、こっそり食べものを差し入れするなど、当時から日本人に好意的だったと伝えられています。そのようなことからウズベキスタンでは母親が子供に「日本人のようになりなさい」と言って、教育していた方もおられたそうです。

ウズベキスタンの人々の命を災害から守ったナヴォイ劇場

【写真:フォトライブラリー】ウズベキスタンの首都タシケントにあるナヴォイ劇場

完成から約20年後の1966(昭和41)年にタシケント市の中央を大地震が襲いました。街の建物は約70%倒壊したにもかかわらず、日本人が建設に従事したナヴォイ劇場は壊れることがなかった数少ない建造物の一つ。

市民の避難所にもなっていたそうで、多くの人々の命を救いました。それがきっかけとなり、日本人の品質へのこだわりや技術力が高く評価されました。いまでも地震が起こったら日本人の作った建物に逃げろ!と現地では言われているそうです。

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