ウズベキスタンと東京五輪のホストタウン「舞鶴市」の感動の実話に迫る
海外から66万人を迎えた“引き揚げ”のまち「舞鶴」
ナヴォイ劇場を建設した第4ラーゲル隊も舞鶴港へ
ナヴォイ劇場を建設した日本人抑留者のほとんどが、ウズベキスタンから舞鶴港へ引き揚げてきました。第二次世界大戦が終わったのち、満州や朝鮮半島をはじめ南太平洋など多くの国や地域に残された約600万人以上の日本人の“引き揚げ”が始まります。
全国に18カ所、引揚船を受け入れる港が設置され、舞鶴港もその一つです。1945~1958(昭和20~33)年の間、主に旧満州や朝鮮半島、シベリアからの船を受け入れました。その数は346回、受け入れ人数は66万人におよびます。
舞鶴市民が引揚者を「おもてなし」
戦後の食糧難のなかでも、舞鶴市民は戦争で傷ついた引揚者たちにお茶やふかした芋を振るまうなど、温かく迎えたそうです。
引き揚げ後も続いた抑留者たちの交流
ナヴォイ劇場を建設したメンバーで結成された「タシケント第4ラーゲル会」は、1949年から第4ラーゲル隊の隊長が亡くなった2009年まで61回に渡って、年1回のペースで交流会が開催されました。1991(平成3)年には、引揚記念館に桜の記念植樹を残しています。
平和を願い平和交流活動を続ける、抑留者の今
会員の高齢化にともない亡くなった方も多いのですが、大阪府高槻市在住の新家苞(にいのみ しげる)さん(現94歳)はいまでもご健在で、ウズベキスタンと日本の交流を深めるために尽力されています。
新家さんは過去に4度、ウズベキスタンに足を運ばれたことがあるそうで、つい先日2019年11月18日に行われた「ウズベキスタン文化芸術訪問団公演」のセレモニーでは、ステージに上がり元気な姿を見せてくださいました。「これからもどんどん交流していただきたいです。関空から8時間で行けるので皆さんぜひウズベキスタンへ行ってください」と力強くコメントされました。
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