京都府にある国指定の名勝庭園「無鄰菴(むりんあん)」。緑豊かな美しい景観を楽しむことができるスポットですが、かつてこの無鄰菴では、伊藤博文と山縣有朋たちが日露開戦に向けて話し合った「無鄰菴会議」が行われました。
今回は、時代の流れを刻んできた無鄰菴の魅力を歴史とともにご紹介していきます。
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名勝庭園「無鄰菴」で開かれた大事な会議
無鄰菴は山縣三名園のひとつで、東京だと「椿山荘」が有名ですよね。
この無鄰菴は、南禅寺界隈における別荘群の先駆けとして、明治29(1896)年、七代目小川治兵衛(植治)により作庭された元勲・山縣有朋の別邸です。庭園と母屋・洋館・茶室の3つの建物によって構成されていています。
いまは創業以来、約170年前から南禅寺の御用庭師を務める植彌加藤造園株式会社(以下・加藤造園)が運営しています。加藤造園は、星野リゾートなどに作られる庭の作庭も手がけているようです。
旧来の池を海に、岩を島に見立てる象徴主義的な庭園から、里山の風景や小川そのもののような躍動的な動きや、流れをもつ自然主義的な新しい庭園観によって造営されています。
無鄰菴の庭園には、特徴が3つあります。
- ・東山を借景としている
- ・芝生を取り入れた
- ・軽快な水の流れを有した庭園
この無鄰菴は「第三無鄰菴」ともいわれているそうです。「第二無鄰菴」は高瀬川二条にある食事処、がんこ高瀬川二条苑です。
そして「初代無鄰菴」は奇兵隊のふるさと、山口県下関市の吉田にある高杉晋作の菩提寺の東行庵だそうです。隣に庵がない閑静なロケーションを好んだことから、無鄰菴と名付けられたようです。
かつての枯山水庭園は、絵のように眺める「鑑賞するための庭」でした。それに対して、この無鄰菴の庭は、山村の風景を再現し、園路を散策して楽しむものとして作られています。
個人の体験や感覚が、より大事になる。そこにも明治から新しい時代への変化が感じられる空間です。
母屋から一番遠くにある三筋の滝は、「三段の滝」といいます。京都の醍醐寺三宝院庭園にある、三段の滝を模したものなのだとか。
庭園を流れる川には、「沢飛石(さわとびいし)」と呼ばれる石が配されており、沢飛石の奥には、三段の滝(さんだんのたき)が配されています。
この滝は琵琶湖疎水を庭園用水として利用しています。琵琶湖疏水は、滋賀県の琵琶湖から京都へ引かれた水路で、明治18 (1885) 年に着工し、5年後に完成しました。これにより京都には大量の水、舟の水路、灌漑用水、防火用水、水車動力、そして水力発電などがもたらされます。
母屋は数寄屋造りの2階建てで、拝観可能なのは1階のみ。1階は8畳と10畳の和室があります。
1階和室は全面がガラス戸で、部屋から日本庭園を一望できる造りです。寺社仏閣では味わえない、明治時代の建築特有のガラス張りの開放感が本当に素晴らしいです。茶室は藪内家の燕庵の写しが建てられています。
1903年4月21日、ロシア帝国との緊張関係が続くなか、ここ無鄰菴庭園の洋館2階で「無鄰菴会議」が開かれました。時代背景としては、1894年の日清戦争に勝利したことで、遼東(りょうとう)半島を日本に取られ欧米列強は困っていました。
とくに冬には、ほとんどの港が凍ってしまうロシアは南下政策(南方に進出しようとする政策)をとっていた時代です。
ロシアは利害が一致するドイツとフランスを巻き込んで、日本に遼東(りょうとう)半島を清に返還するよう勧告してきました。これが、三国干渉です。
このとき、日本はこれをなくなく受け入れましたが、ロシアに対して敵意を抱いていった時代でした。そんなときにこの場所で無鄰菴会議が開かれたのでした。出席者は山縣有朋、伊藤博文、桂太郎、小村寿太郎の4名。
この会議は、そのあとの日本の東アジア外交の方針を決定づける非常に重要な会議と歴史上に位置付けられることになりました。2階の洋室は、そんな当時のようすがそのままに保存されているのです。
- 無鄰菴
- 京都市左京区南禅寺草川町31
- https://murin-an.jp/
- 当面の間は事前予約制(2020年7月30日時点)。
- image by:shikema / Shutterstock.com
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