日本人で初めてエジプトのスフィンクスと記念撮影をした侍の旅

スフィンクス像前での池田使節団、1864年。

ピラミッドに向かう一行に、エジプト人の群衆が押し寄せた

19世紀後半のカイロの城塞image by:Antonio Beato, Public domain, via Wikimedia Commons

当時の日本人は、世界のガイドブック『地球説略』を持っていました。その本にも当然、ピラミッドの情報は掲載されていました。記述を現代語訳をすると、次のようになります。

「カイロの近くに古跡があって、家とも塔ともいえない、塚のように石を積み上げたものがある。その頂上の高さは山にも匹敵する。(略)塚の中には古人の棺がある。どれくらい前の時代までさかのぼるのか、分からない。また、それが表す意味も何なのか分からない」

スフィンクスについても、当時の侍たちは「巨大首塚」と読んで、存在を知っていたと分かっています。鎖国をしていた日本でも、特に幕末の知識人たちは、大変な国際的感覚と知識を持っていたのですね。

そうした予備知識を持った第2回遣欧使節団の大多数は、カイロ滞在中に、ピラミッドとスフィンクスのミニツアーに参加します。カイロからギザの三大ピラミッドまでの所要時間は、現代でいえば車で約1時間ほどの距離。

しかし、当時の移動手段は馬車でした。小旅行の参加者27人を移送するために、10台の馬車が用意されます。その出発の様子を、群衆が見学するために集まりました。

当然、日本から来た侍たちはカイロの人たちにとって、宇宙人を見るような好奇の対象です。馬車が回された宿泊施設の周りには、数百人の野次馬が押し寄せたと言います。

馬車が動き始めても、100mくらいは群衆が走って追いかけてきたと記録が残っています。このエピソードは、まだ地球が「広かった」時代を肌感覚で理解させてくれます。

馬車が2kmほど走って郊外に入ると、一面の綿花の畑が広がっていました。それこそナイル川の広大な三角州は、見渡す限り綿花に覆われていたと言います。

独立行政法人国際協力機構のホームページに、当時のエジプトの経済状況が書かれています。オスマン帝国(かつてオスマントルコと日本の教科書には記載されていた)の属州だったエジプト州は、輸出向けの農業に力を入れていたといいます。

アメリカで南北戦争が始まり、綿花の輸入先を失ったイギリスが、エジプトに綿花栽培を求め、大量に買い取っていたそう。第2回遣欧使節団がピラミッド観光の道中で見た広大な綿花の畑は、イギリスに送り込まれる綿花だったのですね。

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