カンヌ国際映画祭をはじめとする世界的な映画祭でもたびたび注目される日本の映画。今日では現代劇やアニメなど多様な広がりを見せていますが、元祖・日本映画といえば、明治維新前の日本を舞台にした「時代劇」でしょう!
痛快なアクションあり、涙を誘う人間ドラマあり、日本人の心を揺さぶる普遍的な魅力がたくさん詰まった時代劇は、メイド・イン・キョウトの代表格でもあります。その歴史をひもときつつ、数々の名作を生み出してきた聖地の一つ、松竹撮影所の舞台裏をご紹介します!
日本初の上映会を経て本格化……時代劇の始まりは京都から
路面電車や水力発電といった“日本初”の試みがさかんに行われた明治時代の京都。実は映画上映会が日本で初めて催されたのも京都でした。
明治29(1896)年、大阪商工会議所の会頭も務めた実業家の稲畑勝太郎が、フランス留学時の級友リュミエール兄弟が発明したシネマトグラフ(映写機兼カメラ)と、その興行権およびフィルムを購入し、翌明治30(1897)年、京都電燈株式会社(現在の立誠小学校跡地)で国内初の試写実験を成功させたのです。
それから11年後の明治41(1908)年、本格的な時代劇映画が京都で誕生しました。当時、西陣の芝居小屋の狂言方(舞台監督)だった牧野省三氏が製作全般を取り仕切り、歌舞伎をベースにした劇映画『本能寺合戦』を完成させました。
残念ながら当時のフィルムは残っていませんが、ロケ地となった真如堂(京都市左京区)の境内では、その歴史を伝える「京都・映画誕生の碑」を見ることができます。
牧野氏は時代劇映画の第一号を世に送り出しただけでなく、その後の作品で画期的な撮影技術や演出手法などを独自に編み出し、脚本家や俳優ら後進の育成にも尽力。日本映画の礎を築いた多大な功績により「日本映画の父」と呼ばれています。
“日本のハリウッド”と謳われた映画のまち・太秦
時代劇映画の黄金期を迎えた大正末期〜昭和初期、京都・太秦の地に撮影所が続々とオープンしました。「阪妻(バンツマ)」の愛称で親しまれた剣劇スター・阪東妻三郎(俳優・田村正和氏の父上です!)が撮影所を開いたのを皮切りに、大物俳優や映画会社がこぞって撮影所を構えたのです。
太秦が好まれた理由としては、撮影所に適した広い土地が得やすかったことや、材木屋がこの地に多く集まっていてセット作りがしやすかったこと、また、京都の中心部から比較的近く、行き来がしやすかったことなどが挙げられます。
こうして多くの撮影所が集結した太秦は“日本のハリウッド”と呼ばれるほど繁栄し、日本映画の中心地となりました。
そんな活況を支えた撮影所の一つが、昭和16(1941)年設立の松竹太秦撮影所を前身とする松竹撮影所です。松竹映画といえば、『男はつらいよ』や『釣りバカ日誌』といった現代劇シリーズが有名ですが、時代劇の分野でも映画史・テレビ史を彩る数々の名作がつくられてきました。
日本アカデミー賞最優秀作品賞などに輝いた『たそがれ清兵衛』(2002年)や『壬生義士伝』(2003年)、巧みなCG加工で話題を呼んだ『鴨川ホルモー』(2009年)、テレビ時代劇の『必殺仕事人』シリーズ(1979年〜)や『鬼平犯科帳』シリーズ(1989〜2016年)など、時代劇ファンならずとも馴染みのある作品のオンパレード。これらはすべて、京都の松竹撮影所で撮影された作品です!
さて突然ですが、ここで一つ問題です。時代劇における「松竹京都撮影所らしさ」とは何だと思いますか?ずばり答えられたアナタは相当な時代劇ツウかもしれません。
今回、撮影所の歩みについてお話をうかがった京都製作室長・井汲泰之さんによると、「庶民に寄り添った題材やストーリー」「製作チームの“融合”と“挑戦”」が松竹時代劇の持ち味なのだとか。
1点目については確かに、大奥や宮中を舞台にした絢爛豪華なものより、町民や下級武士の生き様を描いた骨太な作品が多いような気がしますね。
そうした傾向がある一方、「カタチがないのが松竹京都撮影所のカタチ」というスタンスを取り、監督や制作プロダクションの発想を柔軟に受け入れて新しい表現に挑み続ける――。
それが2点目に挙げられた「融合と挑戦」の意味するところです。奇想天外な必殺技で視聴者を魅了しつづける必殺シリーズなどは、融合と挑戦なくしては決して生まれなかった作品でしょう。
また、2008年からは立命館大学、京都府と産学官連携を結び、大学生に学びの場を提供するなど、撮影所として時代劇や映像文化の発展に向けた「融合と挑戦」にも力を入れています。
「学生さんと触れ合うことで、若い世代を意識した新しいコンテンツづくりの気運が高まってきました。時代劇のエッセンスもうまく取り入れられるといいですね」と、まさに今、融合と挑戦の新たなカタチを模索している真っ最中です。
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