「タフでなければ生きていけない。優しくなければ生きている資格がない」の決め台詞で有名なレイモンド・チャンドラーは、主に1930~50年代のロサンゼルスを舞台にして、私立探偵フィリップ・マーロウを主人公とした一連の都会派ハードボイルド小説を書き続けました。
チャンドラーが残した数多くの作品のなかでも『大いなる眠り』や『長いお別れ(ロング・グッドバイ)』といったいくつかの有名な長編は、ハードボイルドやミステリーといった枠を越えて、ヘミングウェイやフィッツジェラルドなどと並ぶアメリカ文学史上の名作であるとの評価が定着してきました。
彼の7つの長編小説すべてを翻訳した村上春樹氏は、これらの作品を「準古典小説」と呼んでいます。
そんなチャンドラーは遅咲きの小説家でした。長編第1作の『大いなる眠り』が刊行されたときには、すでに51歳だったのです。
そして、作家キャリアのごく早い時期からロサンゼルスの都心部から離れ、南カリフォルニアでも地方にあたる「ビッグ・ベア」や「ラ・ホヤ」といった自然に恵まれた郊外の土地で暮らしていました。
日本でいえば、葉山や軽井沢あたりの別荘地に住んで、新宿や六本木を舞台とした都会の犯罪小説を書くようなものでしょうか。
そうはいっても、他の多くの米国作家の例に違わず、チャンドラーの晩年もけっして平穏な日々ではありませんでした。18歳年上の愛妻を長い病気の末に亡くし、自身もアルコール依存症やうつ病に苦しんだあげくに拳銃自殺未遂も起こしています。
遺作『プレイバック』の舞台となった、小さくて裕福な街
チャンドラーがそんな晩年を過ごし、そして亡くなったラ・ホヤという街は、サンディエゴ市内にあります。太平洋に突き出た半島のような形をした海岸沿いの小さな街です。
チャンドラーの小説に登場するマーロウがオフィスを構えていたロサンゼルスからは約200kmほども離れていますし、当時も現在も裕福な老人が多く住む、平和な美しい土地として知られています。全米中を見渡しても指折りに住宅価格が高いことでも有名です。
マーロウが活動した地域は、ほとんどがロサンゼルスの都心部が中心でした。しかし、7編目の『プレイバック』では、マーロウはロサンゼルスから鉄道に乗って、「エスメラルダ」という架空の街にやってきます。
そしてその「エスメラルダ」は、チャンドラーが住んでいたラ・ホヤをモデルにしていると見られる描写が作中に数多く出てくるのです。
「昔はそりゃ静かな町でな、大通りの真ん中で犬が昼寝をしているもので、もし車に乗っているようであれば、しょっちゅう車を停めて降りて、犬を道路からどかさなくちゃならなかった」と、チャンドラーは『プレイバック』のなかで、ある老人に語らせています。
とても都会派ハードボイルドの舞台になるような雰囲気の土地柄とは思えないのですが、どうやらチャンドラーは高齢で病気がちだった愛妻シシーの健康を何よりも優先し、静かな住環境を望んだようです。
チャンドラーがある映画会社からの依頼を受け、『プレイバック』というタイトルのシナリオを書き始めたのは1947年のことでしたが、間もなくその作業は挫折します。長らく放棄されていたストーリーをチャンドラーが再び書き始めたのは1953年。そのころには、シシーはすでに死の床にありました。
その後の紆余曲折を経て、『プレイバック』が刊行されたのは1958年のことです。チャンドラーはそのとき70歳になっていました。そしてその翌年にラ・ホヤで亡くなっています。
マーロウものシリーズの次作に取り掛かっていましたが、その作品は未完に終わりました。『プレイバック』をチャンドラーの実質的な遺作と呼んでいい所以です。
日本で有名なセリフは、海外では通じない?
ところで、チャンドラーやマーロウの名前を知らない人も、『プレイバック』冒頭の「タフでなければ−−」の決め台詞は、どこかで耳にしたことがあるのではないでしょうか。
日本では1979年の映画『野生の証明』でキャッチコピーとして使われて有名になったということですが、実はこの文章は英語圏ではまったく有名ではありません。
「レイモンド・チャンドラーの名言100選」といった類の英語サイトはいくつかありますが、そこで人気リストの上位に登場するのは決まって、「さよならを言うことは少しだけ死ぬことだ」や「悪いウイスキーというものは存在しない。ただ他のウイスキーよりも味の劣るウイスキーがあるだけだ」などといった言葉です。
例の「タフでなければ−−」はまったく出てこないか、あるいはリストのかなり下位に出てきます。
そもそも、この台詞は意図した誤訳とはいえないまでも、かなり大胆な意訳だといえるのです。チャンドラーの原文は「If I wasn’t hard, I wouldn’t be alive. If I couldn’t ever be gentle, I wouldn’t deserve to be alive.」です。
この文章をどのように解釈するかは人それぞれでしょうが、かの有名な日本語訳が字句的にも文法的にも正確ではないことは明らかです。
もし、この文を訳しなさいという問題が入試に出たとして、あの決め台詞を答案に書いてしまったら、高得点を得るのは難しいでしょう。
私が訳すとすれば「自分に厳しくなかったら、俺はこうして生きてはいられなかっただろう。もし他人に少しでも優しくなれなかったのなら、俺には生きている価値さえなかっただろう」です。長すぎますね。キレがないですね。
それでは日本が誇る世界の文豪、村上春樹氏はこの文をどのように訳しているでしょうか。
ここで紹介したいのは山々なのですが、やはりネタバレになってしまいますので、興味のある人は早川書房から出ている『プレイバック』を読んでみてください。第25章、文庫本の293ページ目に出てきます。
今回はラ・ホヤを中心にチャンドラーの世界を紹介しましたが、主舞台になったロサンゼルスの都会的な雰囲気を好む人も多いと思います。
好きな本の舞台になった土地へ行ってみる。あるいは好きな土地が舞台になった本を読んでみる。どちらが先でも後でも構いません。想像力は読書と旅の両方の楽しさを引き上げてくれる絶好のスパイスになるでしょう。
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