日本の侍が初めてパリを旅したとき、彼らの目に世界はどう映ったのか

日本人はパリをどう感じた?

ナポレオン3世に面会する使節団image by:Gustave Janet (1829-1898), Public domain, via Wikimedia Commons

日本人はパリを見て、このときどのように感じたのでしょうか?恐らく、ど肝を抜かれたと思います。

なにしろ当時のパリはナポレオン3世によって大規模な都市整備が行われた直後でした。いわゆる「パリ改造」です。ナポレオン3世とは有名なナポレオン1世の甥にあたり、老朽化した低所得者の住居を建て替え、街路を拡張し、上下水道を整備して、公園をつくり、美しいパリをつくる壮大な計画の真っただ中でした。

パリ改造は1850年代・60年代前半・60年代後半と3期に分けられます。第1回の遣欧使節団(文久遣欧使節)が到着したころのパリはちょうど2期にあたります。

到着時はオペラ座が建設中でした。一団に通訳として参加していた当時27歳の福沢諭吉は、現存するフォルタン文具店で買った手帳にパリの感想をあれこれ記しています。

パリ改造の成果の例。オペラ通り。image by:Camille Pissarro, Public domain, via Wikimedia Commons

福沢諭吉『条約十一国記』には例えば次のような感想が書かれています。

「フランスの都をパリという。その美しさはヨーロッパ第一で、すなわち世界第一の都といえる。市中の家は6~7階の高さで建ち並び、夜も往来に街灯を照らしているので昼夜の違いはない。その繁盛し華美なまちの様子は他に例えようがない」(筆者が現代語訳)

「パリ改造」で生まれ変わったパリの美しさは福沢諭吉をして「例えようがない」くらいだったのですね。とはいえ冷静な観察もしています。

「人の数は百万人くらいで、都の広さもイギリスのロンドンよりは狭い。日本でいえばパリは大坂に似ていて、ロンドンは江戸(東京)に似ている」

当時の江戸の人口は世界でも屈指の状態でした。その江戸のにぎわいと比べればパリもそれほどではない感じだったみたいです。

この感覚は現代でも一緒ですよね。東京はどこまで行っても東京のにぎわいが広がっていますが、パリは意外に小さいです。中心部の面積も山手線の内側に収まるくらいです。

江戸時代のころから江戸(東京)は世界的に見てもなかなかのポテンシャルを持っていて、そのポテンシャルを現在もいかんなく伸ばし続けているみたいですね。

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