日本の侍が初めてパリを旅したとき、彼らの目に世界はどう映ったのか
福沢諭吉が旅したパリの観光スポットと宿泊先は?
文久遣欧使節(第1回)は往路でパリに20日以上滞在したと書きました。帰路でも9月22日にパリに立ち寄って10月5日まで滞在しています。この間に一団は現地をあれこれめぐっています。では、福沢諭吉らは実際にどこに泊まり、パリの何を見たのでしょうか。
「ホテル・デュ・ルーブル」が宿泊先だとまず分かっています。「ルーブル美術館」から徒歩約2分くらいの位置にある現存のホテルですね。この格式あるホテルを起点に一団はルーブル美術館を訪れたようです。セーヌ川対岸にあるオルセー美術館は当時まだ存在していません。
「マドレーヌ寺院」に訪れたとも記録が残っています。マドレーヌ寺院とは古代ギリシャの神殿を思わせる建築様式の寺院です。世界文化遺産にも登録されています。
「エッフェル塔」はこのころ存在しません。パリ万博が開催された1889(明治22)年に完成していますのでまだ先の話です。「凱旋門」は一方ですでに存在し、「シャンゼリゼ通り」も整備されていました。
公式な訪問記録はないみたいですが、これだけ長くパリに滞在していれば必ずどこかで足を向けていますよね。他には植物園、フランス学士院、国立図書館なども訪れているみたいです。
ちなみに文久遣欧使節(第1回)が訪れた10年後の1872(明治4)年 から2年間にわたって、明治政府があらためて欧米に派遣した岩倉遣外使節の記録『米欧回覧実記』に、凱旋門とシャンゼリゼ通りに関する記述がたくさん見られます。
岩倉遣外使節のころになると日本人にも海外の情報が豊富に入ってきているはずです。訪問前にかなりの知識を書き手が仕入れていたのか、『米欧回覧実記』にはパリの冷静な観察記録が書かれています。
それでも凱旋門については、天井の高々とした明るさ、石壁の彫刻の見事さ、市のランドマークとなる大建築の存在感を絶賛する記述が見られます。
凱旋門の完成は思えば1836(天保7)年で、岩倉遣外使節のパリ訪問は1872年です。
<落成からはまだわずかに三十五年経っただけである>(『現代語訳 特命全権大使 米欧回覧実記』より引用)
と『米欧回覧実記』にもあるように、凱旋門が完成して「間もない」ころの渡仏でした。
文久遣欧使節(第1回)の渡仏は1862年ですから、さらに完成年度に近くなります。現代人の感覚からすれば「ザ・歴史的建造物」の凱旋門ができて間もないころに日本人の使節団がパリに訪れて見物していた事実に、ちょっと驚かされませんか?個人的には感慨を覚えてしまいました。
新型コロナウイルス感染症の影響が収まって再びフランスのパリに訪れられる日が来たら、上述のような日本の使節団が訪れたパリの観光名所を再訪するように歩いても楽しいかもしれませんね。一般的なガイドブックとはまた違った楽しみ方ができるはずですよ。
- 参考
- パリの日本大使館員がフランスで見つけた日本
- 江戸幕府とフランスの出会い
- 研究旅行奨励制度報告書「幕末維新期、ヨーロッパを訪れた日本人」
- ブリタニカ国際大百科事典
- 日本大百科全書(小学館)
- [ステンドグラス] フランスにおける福澤諭吉の足跡 – 慶應義塾
- 覚悟と気迫を見よ!パリで撮られた若き諭吉の写真 – JB press
- 外務省外交史料館 特別展示「外交史料に見る日本万国博覧会への道」万国博覧会との出会い 概説と主な展示史料
- 『現代語訳 特命全権大使 米欧回覧実記』