日本の侍が初めてパリを旅したとき、彼らの目に世界はどう映ったのか
壮大な船旅を経て…
日本が幕末に公式の使節団をフランスへ派遣した狙いは何だったのでしょうか。1861(文久1)年に派遣された文久遣欧使節については、フランス、イギリス、オランダ、プロシア(ドイツ)、ロシア、ポルトガルの6カ国を歴訪して、一度約束した日本の開港方針を延期する談判の狙いがありました。
尊王攘夷(そんのうじょうい)の風が国内で吹き荒れ、開港を認めた弱腰の幕府を倒そうとする動きが全国で盛んになったため、ガス抜きのために使節団を送ったわけです。
なにしろ1861年といえば、「大政奉還」「王政復古の大号令」「鳥羽伏見の戦い」「五箇条の御誓文」などで江戸幕府が倒れ、明治新政府が立ち上がる数年前の話です。
江戸の品川港を出発した一団は長崎を経由し、香港、シンガポール、マレーシアのセイロン、アラビア半島の先端にあるイエメンを経て、エジプトのスエズへ入ります。
このころ香港もシンガポールもマレーシアのセイロンもイギリス領でした。スエズには有名なスエズ運河が存在しません。船でそのまま地中海へ出られないので陸路に切り替え、鉄道でカイロから地中海に面したアレクサンドリアへ出ました。
この2年後に再び訪れる遣欧使節団(第2回)がカイロ滞在中にピラミッドとスフィンクスに立ち寄るのですね。冒頭の話です。
しかし第1回に派遣された使節団はピラミッドに立ち寄りません。アレクサンドリアから船に乗ると地中海を渡り、イギリス領だったマルタ島を経て南フランスのマルセイユに入ります。
到着した日付は1862年4月3日。陸路に切り替えるとパリへ向かい4月7日に到着します。日本人が初めて公式にパリに足を踏み入れた瞬間です。
この日から使節団は4月29日までパリに滞在します。開港の延期を認めさせる重たいミッションを抱えていたため、責任者は大変なプレッシャーを感じていたと予想されますが、現在のお気楽な立場から歴史を振り返ると、20日以上も当時のパリに滞在できるなんてうらやましいと感じてしまいました。