伊賀越えの道をめぐる~徳川家康が走り抜けた京田辺市~

来年のNHK大河ドラマの主人公であり、戦乱の世に終止符を打って江戸幕府初代将軍となった徳川家康。天下人として名高い家康が、かつて命懸けで脱出を図った「伊賀越え」の道が京都府南部の山城地域にあることをご存じでしょうか。

この話には諸説あり、明確なルートは解明されていませんが、今回、伊賀越えの際に通ったとされる京田辺市をガイドの方に案内してもらいながら歩いてきました!地域に残る伝承とともに、京田辺市の魅力や見どころスポットを紹介します。

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徳川家康 決死の「伊賀越え」とは?

1582(天正10)年、6月2日に起きた「本能寺の変」。当時、織田信長の勧めで堺(大阪府)を遊覧していた徳川家康は、京への上洛途中に明智光秀の襲撃によって信長が本能寺で討たれたことを知ります。

信長と同盟関係でもあった家康にも、光秀に討たれる危機が迫ります。少数精鋭のお供しか連れずに行動していた家康は、光秀に対抗するのは不可能と考え、自らも知恩院(京都)で自刃することを選択しましたが、本多忠勝らの説得により自国領の岡崎城(愛知県)への帰還を決意します。

山城から近江の甲賀・伊賀を通り、伊勢から三河へ船で渡る最短ルートを選択するも、道中には家康の命を狙う落武者狩りなどの危険が伴いました。この危険な道のりを、土地に詳しい案内者を使うなどして決死の覚悟で3日かけて逃走したといわれています。

いざ出発!!家康が走り抜けた伊賀越え伝承の地

今回、案内していただいたのは、京田辺市観光ボランティアガイド協会の田原さん(右)と近藤さん(左)のお二人です。取材当日は近鉄新田辺駅で待ち合わせをして、京阪バスに乗ってまずは尊延寺へと向かいました。

枚方市の古刹 尊延寺からスタート!

今回の旅のスタート地点である尊延寺は、731(天平3)年に宣教大師が勅願によって建立された歴史あるお寺です。家康は堺から京都への上洛途中、本多忠勝から本能寺の変の知らせを受け取ったあと、伊賀越えを開始する際にこの尊延寺地区を通ったといわれているそうです。

※尊延寺は、京田辺市に隣接している大阪府枚方市にあります。

いよいよ伊賀越えルート突入にあたり、安全を祈願してお参りをしてからスタートしました。

尊延寺をあとにし、自然豊かな田園地帯を歩きながら京田辺市内の伊賀越えの道をどのように見つけたのかを聞いてみると、なんとガイドさん自ら史実や伝承などを参考に歩いて探したのだとか!

なかでもこれから向かう甘南備山(かんなびやま)には、雰囲気たっぷりの伊賀越えの道があると聞いてわくわくしながら進んでいきました。

てくてくと道なりに歩いていましたが、突然草木が生い茂る脇道に入り、どんどん進んでいきます。個人で訪れたら「ここ入っていいの?」 と不安になりそうな道です。さすが、歩いてルートを探したガイドさんならではのコースだと感じました。

家康も身を潜めて進んだかも?甘南備山の谷間を行く

辿り着いたのは、標高221mの雄山と201.6mの雌山からなる京田辺市唯一の独立峰である甘南備山。ここは古くから神の宿る山として信仰の対象となっていたそうです。この雄山と雌山の谷間に家康一行が通ったのではないかと思われる道があるそうです。

その谷間に差し掛かると檜に囲まれた、まさに雰囲気たっぷりの場所がありました。人目を避けて逃げるには良さそうですが、追手を気にしながら走るには厳しい山道。この道は、当時でも地元の人の先導がないと見つけることができなかったのではないかともいわれているそうです。

「伊賀越えっぽい道だ!」と感動しながら歩いていると、自然と家康一行がこの道を進むイメージが湧いてきました。

そしてこの場所から少し進んだところに、右側に川が流れ、左側に竹藪の道があるのですが、この道は山岡荘八さんが書いた『徳川家康』文庫版8巻に出てくる伊賀越えの描写に非常に近いスポットなのだとか。事前に本を読んでから歩くのも楽しそうですね。

甘南備山を抜けて次のスポットを目指していると「あれ、比叡山だよ~」とガイドさんが教えてくれました。まさか京田辺市から比叡山が見えるとは思ってもいなかったので「おぉ~」と歓声をあげながら写真をパシャリ。

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