昭和のヒロインは美しい。モノクロで輝きを放った銀幕の女優たち

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これまでTRiP EDiTOR編集部では、大正のモダンガール幕末の日本の女性を取り上げてきました。今回は昭和の映画界に活躍した1900年〜40年代生まれの日本を代表する女優たちを紹介します。現代の女性とはまた違った美しさが魅力的です。

「永遠の処女」と呼ばれた大女優 原 節子(横浜市出身)

『新しき土』(1937年)image by:Unknown author / Public domain

日本映画史に残る大女優のひとりといえば、やはりこの方、原節子さん。「永遠の処女」と呼ばれ、戦前から戦後まで、銀幕スターとして活躍し続けました。

初の日独合作映画『新しき土』で一気にスターダムに駆け上り、その後は小津安二郎監督作品の『晩春』、『東京物語』など6作品に出演を果たし、小津監督からは女優としての高く評価されました。

小津監督の死後より、表舞台にでることはなくなり、事実上女優業は引退へ。2015年に亡くなるまで、鎌倉で隠遁生活を送っていたと言われています。

『東京物語』
映画『晩春』で見せる笑顔もまた素敵
映画『晩春』

巨匠監督の作品に出演し続けた大女優 高峰 秀子(北海道函館出身)

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戦前と戦後に活躍した日本の大女優、高峰秀子さん。4歳の時に母親が亡くなったため、叔母に引き取られ、北海道函館市から東京へ移住し、「天才子役」としてキャリアをスタートしました。

成瀬巳喜男監督の作品には17本も出演し、その中でも名作『浮雲』は、彼女の代表作になりました。同じく木下 惠介監督の作品にも数多く出演し、中でも、『二十四の瞳』は有名。生涯400本以上の映画に出演されたそうです。

晩年はエッセイストとしても活動し、『わたしの渡世日記』は、日本エッセイスト・クラブ賞を受賞しています。

ちなみに、当時の女性としては珍しく愛煙家だったそうです。


『二十四の瞳』のワンシーン

60年代を代表する正統派美人女優 鰐淵 晴子(東京都出身)

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ハプスブルク家の末裔であるオーストリア人の母親とバイオリニストの父親の間に生まれました。鰐淵晴子さんは、正統派美人として、1960年代の映画界を牽引した女優のひとりです。代表作には、『ノンちゃん雲に乗る』があります。幼少の頃は「天才バイオリニスト」と話題を呼びました。


大映の看板女優、京マチ子(大阪府出身)

『楊貴妃』(1955年)image by:Daiei Motion Picture Company (大映株式会社) / Public domain
大映の看板女優として、1940年から1990年代頃まで活躍した女優、京マチ子さん。
代表作には、溝口健二監督作品の『雨月物語』 、 黒澤明監督作品『羅生門』などがあります。官能的な役どころも多く、映画のシーンの中で見せる妖艶な姿が魅力的です。2000年に発表された『キネマ旬報』の「20世紀の映画スター・女優編」では、日本女優の3位にランクインしています。

初のミス日本代表から女優へ 山本冨士子(大阪府出身)

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京マチ子と同様、大映の看板女優として、1950年代に活躍しました。愛称はお富士さん。「第1回ミス日本」では満場一致で栄冠を手に入れたという美貌の持ち主。このミス日本に選ばれたことがきっかけで一躍注目を浴び、女優の道へと進みました。代表作は「夜の河」、「彼岸花」、「暗夜行路」など。

ちなみに、否定の意味である、「とんでもございません」を初めて使った人物と言われています。

出演作品数260本!大物監督に愛された 田中絹代(山口県下関市出身)

『人生のお荷物』(1935年)image by:Unknown author / Public domain

小津安二郎、五所平之助、溝口健二、成瀬巳喜男ら、大物監督の作品に出演した日本映画史を代表する大女優。しかも、その数、約260本!

幼少の頃は苦労をしたが、14歳で松竹に入社し、その後は松竹の看板女優として活躍します。出世作は、五所平之助監督の『恥しい夢』。

代表作品には、『マダムと女房』『愛染かつら』『西鶴一代女』などがあります。映画監督としても作品を残しています。

[next_page_open num=”2" text=”「絶世の美女」といわれた山口淑子さんや、チャーミングな岡田茉莉子さん”]

日本と中国で活躍した「絶世の美女」山口 淑子(中国出身)

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昭和に活躍した女優の中でもひときわ特異な人生を歩んできたのは山口淑子さん。両親は日本人ですが、中国で生まれ育ち、のちに中国名「李香蘭」という名を得て、日中戦争の最中に「中国人」として女優としてデビュー。

エキゾチックで絶世の美貌と流暢な中国語を操つる姿から、満州国と日本では中国人として信じられていました。(のちにかけられた軍事裁判をきっかけに日本人であることが証明されてましたが)

戦争中は満映専属の女優として、『白蘭の歌』『支那の夜』などの日本映画に出演し、また歌手としても活動しました。ヒット曲には「夜来香」「海燕」などがあります。

日本に帰国後には山口淑子として活動し、その後渡米。プライベートでは彫刻家のイサムノグチと結婚しました(のちに離婚)。1950年代に女優業を引退しましたが、その後は司会業や衆議院などにも挑戦。まさに世界を股にかけ、様々な分野でマルチに活躍した女優でした。

『支那の夜』長谷川一夫と共演image by:Unknown author / Public domain

「性典女優」と酷評された大映の看板女優、若尾 文子(東京都出身)

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1953年に発表された思春期の女子学生の姿を描いた映画『十代の性典』がヒット。当時、マスコミからは「性典女優」と酷評されますが、この作品で知名度がアップ。

その後、溝口健二監督『祇園囃子』や、他の監督の作品に出演し、演技派の美人女優として人気を得ます。以降、260本以上の作品に出演し、戦後の日本を代表する女優へ。

ちなみに夫は 建築家の故・黒川紀章氏。


可憐な美しさが光る 岡田 茉莉子(東京都出身)

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ダンサーの母と戦前に活躍した俳優岡田時彦を父に持ち、東京都で生まれた岡田茉莉子さん。成瀬監督の映画『舞姫』に出演し、東宝スターへの道を駆け上がります。1960年代にはいると、自らもプロデュースに関わった主演映画『秋津温泉』が大ヒット。ちなみに、芸名の名付け親はあの作家の谷崎潤一郎氏だとか。

近年は舞台やドラマなどで活躍しています。

宝塚出身の奔放な女優 有馬 稲子(大阪府出身)

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愛称はネコちゃん、おイネ。複雑な家庭環境を乗り越え、宝塚歌劇団に入団し、在団中に東宝映画『寳塚夫人』で映画デビューを果たします。宝塚を退団したあとは、東映の専属女優となりましたが、50年代には松竹へ移籍し、看板女優となりました。

岸惠子さんと久我美子さんとは長年の友人関係として知られています。自身の著書『バラと痛恨の日々』では、有名監督との過去の不倫関係についても赤裸々に告白しています。

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