日本国内のみならず、世界各国から多くの観光客で賑わう街、銀座。銀座の中央通りなどを歩けば、百貨店や高級ブランドの店が立ち並び、この街が発するエネルギーに圧倒されてしまいます。
今ではそのようなイメージが強い銀座ですが、かつて路面電車の都電・銀座線が走っていた歴史もあります。今回、この都電・銀座線を足跡を辿ってみました。昔の写真と今の写真を比較しながら、銀座という街をのぞいてみましょう。
明治から昭和を駆け抜けた、もう一つの「銀座線」
銀座線――。そういわれて誰もが自然に想い浮かべるのは、東京メトロ・銀座線ではないでしょうか。東京メトロ・銀座線は「アジア初の地下鉄」として1927(昭和2)年12月30日、上野~浅草間でまず開通しました。その後、銀座、渋谷まで延伸(浅草~渋谷間の全通は1941年)し、現在の東京メトロ・銀座線に至ります。
しかし、東京にはかつてもう一つ、銀座線の愛称をもつ鉄道路線がありました。路面電車の都電・銀座線(※1系統)です。都電(正式には東京都電)の前身は1911(明治44)年に発足した東京市電です。
※都電1系統の主な電停(路上の駅)=品川駅・泉岳寺・三田・浜松町1丁目・新橋・銀座7丁目・銀座4丁目・銀座2丁目・京橋・日本橋・室町1丁目・神田駅・万世橋・末広町・上野広小路・上野公園・上野駅前
東京市電は明治後半期から昭和前半期までの帝都・東京における都市交通の花形でした。しかし、第2次世界大戦で壊滅的な打撃を受けた後、東京の戦後復興とともに復活し、東京市が東京都へ移行するのに付随して「都電」へ衣替えします。
それ以後1960年代半ば頃まで、東京の主要市街地には都電が縦横に走っていました。最盛期の路線系統は40数本に及び、なかでも栄えある「1系統」の名称が与えられていた銀座線(品川駅~上野駅前、総延長10.9㎞)は、都電を代表する花形路線でした。
都電はやがて、高度経済成長時代の幕開けとともに訪れる自動車交通の急激な発展と入れ替わりに、路面から姿を消していきます。そんな都電の往年の姿の名残は、今も唯一、現役で運行されている都電・荒川線からわずかに感じ取ることができます。
そして都電・銀座線が廃止されたのは1967(昭和42)年12月10日――。今年でちょうど50年の節目に当たります。そこで今回、都電・銀座線の痕跡を捜す散歩を試みました。
まずは銀座線の花形車両・5500形に詣でる
銀座には銀座線(1系統)を含め、都電の廃止が順次開始される直前の1960年代前半の時点で、計7系統が乗り入れていました。車両にもさまざまなタイプがありました。
中でも写真の5500形(都電・荒川車庫横の「都電おもいで広場」で保存展示中)はアメリカの最新技術を取り入れ、1954(昭和29)年に国内で製造された大型の高性能車両で、PCCカーの愛称で呼ばれていました。
銀座を走っていた都電は銀座線だけじゃありません。写真の5500形は銀座線が廃止される1967年まで現役で走り続けましたが、製造されたのはこの車両を含め、実はほんの数両だけ。
満を持して高性能車両を造ってはみたものの、技術的な問題が出てきたのと同時に、自動車交通量の増大などから、都電の衰退もこの頃から急速に現れ始めました。そんな関係から、量産体制には移行できなかったようです。
ちなみに写真の5500形に付いた「1」のナンバープレートは「1系統」を表し、ライトの下にプリントされた5501の数字は、5500形の1号車を示しています。つまりこの車両が初めて造られた5500形なのです。
都電ファンにはまさにご神体のような5500形車両とともに、1962(昭和37)年製造の7500形車両まで展示されていて大感激。ちなみに7500形車両は旧青山車庫に所属し、主に渋谷を起点とする路線で活躍していた車両だといいます。
都電廃止計画の実践は、1964年東京オリンピックに付随する東京大改造の各種工事と共に始まりました(※渋谷川など東京のあちこちの市街地に流れていた河川も、この頃に集中して暗渠化されていきます。
高度経済成長時代のメインイベント・1964年東京オリンピックを境に、自動車交通網の整備が優先されると共に東京の主要市街地から、河川と都電が消えていったという事実は、日本全国の都市化やまちづくりの歴史を考える際にも、いろいろな意味で象徴的です)。
『都営交通100年のあゆみ』(東京都交通局)によれば、新たな道路工事や地下鉄工事などの計画を推進するのに伴い、1963年にまず利用者数が激減していた小さな路線の廃止を開始したようです。そしてオリンピックから3年後の1967(昭和42)年から、メインの路線を含む都電の本格的な廃止事業が開始されます。
都電・銀座線(1系統)は前述のように、1967(昭和42)年12月10日に廃止されましたが、これが本格的な都電撤去計画の第1弾でした。さらに同じ日に計8系統が廃止されたのを皮切りに、都電は1971(昭和46)年までの足かけ5年間で、計40系統が次々と廃止されていったのです。