廃線から50年。明治から昭和を駆け抜けた、もう一つの「銀座線」
銀座線の主要コース・銀座通りから上野に向け出発!
今回の散歩の主要コースは新橋~上野駅までの、銀座通りを含む中央通り沿いの歩道です。
都電・銀座線(1系統)の運行コースは前述のように品川駅~上野駅前です。実は品川駅~新橋までの第一京浜も、新橋~上野駅前までの中央通りも、元はといえば同じ国道15号線です。そのなかの新橋~上野間だけがわざわざ中央通りと呼ばれるようになり、地図にもそう記されるようになった背景には、同区間が文字通り、都電・銀座線も走っていた1960年代半ばまでの東京のメインストリート中のメインストリートだったからでしょう。
実際に品川を起点に、新橋、銀座8丁目~1丁目(銀座通り)、京橋、日本橋、室町、神田、秋葉原、万世橋、上野などが続くこの区間=中央通りは、日本が近代を迎えた明治時代から昭和の半ばに至るまで、首都・東京の代表的なビジネス街を網羅していたのだといえます。
同時に日本のすべての道路の起点とされる「日本国道路元標」が設置された日本橋の存在も、東京中の道路のなかの道路を示す「中央通り」にふさわしい「箔」といえます。
だからこそ、とくに大正時代以降、国鉄(JR)や私鉄が並行するようにしてこの区間の周辺を縦横に走ってきました。さらに新橋~上野間の中央通りの地下には、地下鉄・銀座線が走り、地上には多数の路線バスとともに、銀座線(1系統)をはじめとするいくつかの系統の都電までもが同時に走っていたのです。
と、そのように意気込み、中央通りを新橋から歩き始めたのはいいのですが、案の定、都電・銀座線の痕跡はなかなか見つかりません(笑)。「このままではいったい、どうなることやら」。
そう不安にかられつつ、中央通り沿いの炎天下の歩道をひたすら歩き続けているうちに、目の前にやがて陽炎越しの蜃気楼のような情景が立ち現れてきました。蜃気楼のようにゆらゆら見えたのは、大勢の人々の姿でした。
銀座8丁目から先は車が完全シャットアウトされ、人々が路上を自由に行き交っています。「あ、そうか!」今日は週末の土曜日。銀座では恒例のホコ天が実施されていたのでした。
さっそく歩道から車道へと下り、両側に銀座通りの瀟洒な街並みを眺めつつ、かつて都電・銀座線の駅が路上にあった銀座7丁目へと進んでいきます。これはまさに「都電からの視線」(視点の高さはかなり違いますが)と同じです。
やがて5丁目から4丁目へと進み、今度は逆に車道を歩く人々を撮影しようと歩道に上がると、あることに気づきました。銀座通りの歩道はモザイク模様のように、微妙に色の違う石タイルが敷き詰められています。
ベージュやグレイ系統が中心のその石タイルのなかに、時折、色の褪せたような黒っぽい石タイルが混じります。そこでまた「あっ!」と気づきました。これはひょっとして都電の敷石では?
都電の線路を支えた敷石が、都電廃止後に歩道の敷石などに再利用された例は、例えば新宿区の荒木町の事例などがいくつもあり、決して珍しいことではありません。
中でも都電・銀座線の敷石は黒っぽい御影石が使われていたと、本で読んだことがありました。そこでとりあえず歩道のタイルを撮影することにしました。そのとき撮った写真がこれです。
週明けの月曜を待ち、銀座界隈の商店街を束ねる「銀座通連合会(中央区商店街連合会)」の事務局に電話で問い合わせると、まさにこの黒っぽい石タイルこそ、かつて都電・銀座線で敷石として使用されていた御影石とのことでした。
実は銀座通りの歩道に都電の敷石(御影石)が再利用されていることは、都電や銀座に詳しい人たちの間ではよく知られている事実だということもあとで知りました。まことに恥ずかしい限りですが、これでひとつ、新知識が増えました。
ところで銀座のホコ天にも、都電にまつわる歴史があります。銀座のホコ天が始まったのは1970(昭和45)年8月2日から。
都電・銀座線(1系統)の廃止から3年後で、銀座通り(中央通り)に乗り入れていた7系統のうち、ホコ天が始まった時点で運行していたのは22系統(南千住~新橋、1971年3月廃止)だけでした。しかし、この22系統も1967(昭和42)年のうちに路線を短縮して、銀座通りは通らなくなっていたのです。
銀座のホコ天は、当時の美濃部亮吉都知事が「いつも車に支配されている道路を市民に開放しよう」という趣旨で発案したとされます。したがって銀座とともに、やはり道路渋滞のひどかった新宿、池袋、浅草でも同時に始まりました。
増大するばかりの車に追い出される形で廃止された、都電にとっては「聖地=墓場」ともいえる銀座通りや、新宿・池袋の目抜き通りから逆に車を追い出し、歩行者のための束の間の「天国」にしようというわけです。
もちろん、都電がまだ普通に走っていたら絶対に実現しなかったでしょう。そういう意味合いにおいて、銀座通りのホコ天(歩行者のための天国)は、いわば「都電・銀座線のお墓」の上に実現した企画でもあるわけです。
そんなことをおもいながら銀座通りの車道、つまり都電・銀座線の「夢の跡」をてくてく歩いていると、ごく小さい頃にこのあたりを、両親につれられ、都電に乗っていたときのことなどがおぼろげながらも、しきりに思いだされてくるような気がします。
後から聞いた話では、銀座通りの所々に、銀座線の線路がまだ埋っているのだそうです。ホコ天でその上を歩いた経験が妙に楽しかったり懐かしかったりしたのは、まさに都電の本物の線路の埋っているその上を、昔の都電体験などを思い出しつつ歩いた(リアル都電ごっこ・笑)からなのかもしれません。