廃線から50年。明治から昭和を駆け抜けた、もう一つの「銀座線」
銀座を出て一路、終点・上野駅方面へ
(銀座1丁目〜日本橋〜万世橋〜上野公園)
銀座の端っこ銀座1丁目を過ぎると京橋。ここからは日本橋・室町方面に向かって、銀座通りよりもさらにレトロな雰囲気の街並みが展開します。
それにしても銀座和光、銀座三越、丸善、銀座松屋、日本橋三越、日本橋高島屋など日本を代表する老舗の百貨店や各種の専門店、さらには金融関係の地味ながらも文化財的な建物に、あの「日本橋」など、重厚かつ歴史的に貴重な建造物群が次々と現れる銀座通り・中央通りの景観をみていると、こここそが、まさに近代東京のメインストリートなのだと改めて実感されてきます。
都電・銀座線の主要なお客さんたちもまた、このあたりの会社に勤める当時のエリートビジネスマンや、老舗百貨店や専門店に買い物に行くオシャレな女性たちが多かったのでしょう。
日本橋を過ぎ、室町を過ぎ、神田や秋葉原に進んで行くと、沿道の雰囲気がまた変化していきます。このあたりは銀座文化圏と上野文化圏の中間。
レトロな建物が多いという点では共通していても、どこか下町的雰囲気と都会的雰囲気がミックスしたような和モダン的な「敷居の低さ」を感じます。都電・銀座線に乗り、観光目的で新橋・銀座方面から来た昔の人たちもきっと、そう感じたのではないでしょうか。
土曜日の秋葉原は銀座と同様に、外国人観光客で目白押しの賑わいです。アキハバラは今や世界の共通語として、その街としての在り方も広く認知されていますが、都電・銀座線が走っていた頃のアキバは、電気部品関係の業者やよその街にない電気部品を求める各種の専門家やマニアなどの集まる街という雰囲気。外国人観光客や萌え系の若者たちなどとはまるで縁のない街でした。
クラシックな親柱が残る万世橋付近は、東京駅が完成する以前の日本の鉄道史初期の主舞台でもありました。また秋葉原に集まる現代の若者たちの多くは、現在さいたま市にあって都電関係の展示も充実している日本最大の「交通博物館」の母体が、2006年まではここ万世橋にあったことなど知らないでしょう。
ましてや石造りの万世橋から秋葉原の電気街を、都電・銀座線がガタゴトと走り抜けていたことを知らない人は、もっともっと多いことでしょう。
秋葉原を過ぎれば、終点の上野駅前はもうすぐです。都電やバスが昔から数多く行き交った末広町駅や上野広小路駅、動物園や美術館、不忍池などに行く行楽客が利用した上野公園駅の付近を通り過ぎると、目の前は上野駅。ガード下をくぐって正面口に回れば、そのあたりが都電・銀座線の終着駅・上野駅前跡です。
さて、2017年の今年が都電・銀座線の廃止から50年目の節目だということはすでに書きました。そして同じ銀座線の呼び名をもつ地下鉄・銀座線は今年で開通90年目の節目を迎えました(上野~浅草間)。
銀座を経由して渋谷~浅草間が全通してからは、今年で76年目となりますが、筆者は都電・銀座線を考えるとき、つい地下鉄・銀座線をセットのように連想してしまうのが常です。
それは例えば、今回歩いた新橋、銀座7丁目・銀座4丁目・銀座2丁目、京橋、日本橋、室町、神田、万世橋、末広町、上野広小路、上野公園、上野駅などの都電・電停跡のあった位置の地下には必ず、地下鉄・銀座線の駅が今も設置されているという共通性におもいが至るからなのかもしれません。
都電・銀座線の新橋~上野間は、地下鉄・銀座線と共に、地上と地下を、同じ時代の空気を吸いながら一緒に走っていたのです。
兄弟とまではいいません(笑)。両者が親しい従兄弟ぐらいの感じにみえてしまうのです。
そこで最後にご紹介するのは、冒頭に掲載した都電・銀座線の花形車両5500形にも匹敵する貴重さと、筆者が勝手に考えている地下鉄・銀座線の最初期車両1001号車の写真です(地下鉄博物館所蔵)。
この車両は地下鉄・銀座線が1927年12月30日に、上野~浅草間で開通した時に、まさに実際に走行していた最初の車両で、今年3月10日には国の重要文化財に指定されました。
地下鉄・銀座線は、こうして開通90周年にふわしい新たな称号を得たわけですが、50年前に消滅したもう一つの銀座線、都電・銀座線には、さしずめ「重要記憶遺産」の称号を差し上げたい(笑)! 都電・銀座線が銀座史に果たした功績や、かつての愛らしい走行姿を知れば知るほどそんなおもいが強まってくる、都電・銀座線を巡る《幻影散歩》でした。
※参考資料――『都営交通100年のあゆみ』(東京都交通局)/『都電跡を歩く』(小川裕夫、祥伝社新書)/『東京都電慕情』(林順信、JTB)/『東京の地下鉄がわかる事典』(青木栄一監修、日本実業出版社編)ほか
- image by:未知草ニハチロー
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