東京のグルメと言えば、何を思い浮かべますか?
江戸前のすしだったり、そばだったり、もんじゃ焼きだったりをイメージする方も多いのではないでしょうか。なかでもこのもんじゃ焼き、東京でも特に「月島」が聖地といわれ、「もんじゃ焼きといえば月島」というイメージを持つことがあります。
そんな東京の伝統的な食べ物、もんじゃ焼きは、一体どうして月島が聖地と言われるようになったのでしょうか。またいつごろから食べられているのでしょうか。
今回はもんじゃ焼きの歴史について月島もんじゃ振興会協同組合の方や、もんじゃ焼きの発祥といわれるお店の3代目店主に取材。すると歴史や由来だけでなく、もんじゃ焼きとお好み焼きとの深い関係もみえてきました。
幕末のころ、存在しなかった埋立地「月島」
もんじゃ焼きと言えば、どこの地名を思い浮かべますか?
多くの方が東京の中央区にある月島を思い浮かべるかもしれません。月島と言えば下町という印象があり、下町と言うとなんだか江戸時代から続く古い歴史のある土地を感じてしまいます。
しかし、月島は幕末まで、隅田川の河口にたまる砂と小石でした(なんだかこのように書くと月島に住んでいる方に失礼な気もしますが)。
現在の月島の辺りは、隅田川のまさに河口です。
幕末から明治時代の初めごろ、佃島と石川島という2つの小さな島があり、島の周辺には川から運ばれてくる砂と小石で、砂し(海中に細長くできる砂の陸地)ができていたと言います。
ただ、そうなると大きな船が入ってこられなくなります。そこで明治時代の中ごろになると、河口付近の川底にたまった砂や小石を取り除き、大きな船が入ってこられるようにしました。
さらに、その砂や小石で佃島の先に延びる砂の陸地を埋め立て、新しい島を1891(明治24)年に作ります。島を築いたため、読んで字のごとく「築島(つきしま)」と命名されました。後に、築地と区別するために改名された「月島」ですね。
その意味で、月島の歴史は明治時代から始まっています。
そのころから大正、昭和、平成、令和といくつもの時代が移ろっていきました。その意味でかなりの時間は経っていますが、日本全体の歴史を振り返ると、それほど長いわけでもありません。
もんじゃ焼きのメッカが月島ならば、もんじゃ焼き自体の時代も、それほど長くはないと考えられます。では、もんじゃ焼きとはいつごろから親しまれているローカルフードなのでしょう?