なぜ東京・月島は「もんじゃ」のまちになったのか?その歴史と由来
もんじゃ焼きは第二次世界大戦前後の生まれ
もんじゃ焼きの歴史は、いつスタートしたのでしょう。
近代食文化研究会『お好み焼きの物語』(新紀元社)を読むと、現在の月島で盛んに食べられている、野菜で土手を作ってその中に汁を流し込むスタイルのもんじゃ焼きは、戦前には見られなかったという記述があります。
戦前とはもちろん第二次世界大戦前という意味で、第二次世界大戦に日本が敗れた年は、1945年です。
月島西仲共栄会商店街振興組合がまとめた「商店街の歴史」には、月島の明治、大正、昭和の歴史が分かりやすく書かれています。先ほど書いた通り、明治時代に月島が埋め立てによって島になりました。
その後、今で言う「勝どき」のエリアが埋めたてられ、沿岸の鉄工所や機械工場などで働く労働者が次々と移り住んできます。大正時代から昭和の初めにかけて人口は膨れ上がり、月島には長屋が多く建ち並んで、子どももいっぱい育っていったと言います。
当然、月島の商店街や路地、空き地が子どもたちの遊び場になりました。
駄菓子屋では当時、東京の下町で広く食べられていた「文字(もんじ)焼き」と言われるお菓子が人気を博していました。
文字焼とは、小麦粉やうどん粉を水で溶いた茶わん1杯程度の汁に、黒みつやしょう油を入れ、駄菓子屋で焼いて食べる軽食です。
なぜ文字なのかと言えば、焼きながら鉄板の上で文字を書いたり絵を描いたりして遊んだからみたいですね。当時の子どもたちは、おやつを食べながら学んでいたのかもしれません。
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