なぜ東京・月島は「もんじゃ」のまちになったのか?その歴史と由来
日本初のもんじゃ焼き店「好美屋」
この文字焼きは、子どもの駄菓子です。今のように大人向けのもんじゃ焼きは、いつ生まれたのでしょう。
月島もんじゃ振興会協同組合の広報に問い合わせてみると、「残念ながらどういった背景で子どもの文字焼が、今のような大人の食べるもんじゃ焼きに変わっていったのかは、正確に把握していない」との話でした。
しかし、大人が食べるもんじゃ焼きを商売として提供したお店は、今も月島西仲通り商店街(月島もんじゃストリート)で人気の「好美家」だと教えてくれます。
そこで創業者から見て3代目の店主に、もんじゃ焼きの歴史を聞いてみました。
「好美屋は私の祖母が創業しました。父親が受け継ぎ、現在は私が店主を務めております。残念ながら祖母はすでに他界していて、どうして今のようなもんじゃ焼きが生まれたのか、父も含めて聞いていません」
との話。
「月島はもともと埋め立ての土地なので、歴史も浅いです。ですから、子どもの駄菓子だった文字焼きが、浅草など歴史の長い土地で大人の食べ物になっていき、そのヒントを受けて祖母が作ったのではないかと思っております」
残念ながら、日本初のもんじゃ焼き屋としてオープンした好美屋でも、大人が食べるもんじゃ焼きは好美屋の考案で生まれたのか、それとも似たような食べ物が当時の東京のどこかで親しまれていて、それを「商売になる」と創業者が考えお店を出したのかは分からないのだとか。
もんじゃ焼きは、お好み焼き屋の鉄板を使ってサイドメニューとして出し始めた
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