なぜ東京・月島は「もんじゃ」のまちになったのか?その歴史と由来
もんじゃ焼きはお好み焼きのサイドメニューとして始まった?
ただ、現地でフィールド調査を行った月島に関する学術論文をいくつか読むと、おぼろげながらも、もんじゃ焼き誕生の歴史は見えてきます。
例えば松島誓子著『中央区月島におけるもんじゃ屋の集積プロセス』(2000年)によると、大正時代の月島には131件の駄菓子屋があり、子どもたちは文字焼を大いに楽しんでいたと言います。
<彼らが1940年代から大人向けのお好み焼屋で合わせてもんじゃを出し始めた。アルコールをメニューに入れることで、子供の駄菓子だったもんじゃが大人の食べ物へと位置づけが変わった>(上述の論文より引用)
つまり、もんじゃ焼きは、お好み焼きのサイドメニューとして出されたとの話。
お好み焼きは新紀元社『お好み焼きの物語』によると、明治末期にはすでに東京で大ヒットしており、大人がお店で焼いて食べるといったスタイルができあがっています。
そのお好み焼き屋の鉄板を使って、サイドメニュー的に文字焼を懐かしんで出したのだと考えられますね。
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