歴史を感じる「城」は、日本人の心を掴んで離さない建造物です。かつて日本には2万以上もの城が存在したとされていますが、現代まで保存されている現存天守はたった12城。
現在では各地で復元・復旧され、200城ほどの城を見学することができます。今回ご紹介する「岐阜城」も文献や絵図、資料などをもとに復元した外観復元天守のひとつ。早速、織田信長の居城として知られる、岐阜城について見ていきましょう。
岐阜城は「難攻不落の名城」ではなかった?
岐阜県岐阜市の金華山(稲葉山)にあり、岐阜市指定史跡されている「岐阜城」。かつて織田信長が、斎藤龍興から奪取した稲葉山城の縄張りを破却して、新たに造営したものです。
信長以前の斎藤氏が居城としていた時代の同時代史料には、「井口城」「金華山城」として登場します。
岐阜城は山城で、京都に対して東の要所に位置し、「難攻不落の名城」として知られていますが、実は、歴史上7回の落城にあっています(5〜6回ともいわれています)。
山頂部の平坦面は少なく、井戸も雨水を蓄えるもので、戦国時代末期の大人数による長期籠城戦には本質的に不向きな城でした。
その構造は斎藤道三時代にさかのぼるとされます。岐阜城は小牧城や安土城と同じく、城下町を見下ろす景観に優れています。つまり、合戦のための城ではなく、基本的に城主の居住空間ような城だったのです。
斎藤道三・織田信長の居城
岩山の上にそびえる岐阜城は、戦国時代には小説『国盗り物語』の主人公である斎藤道三の居城でもありました。
その後、1567年に織田信長がこの城を攻略し、城主となります。信長はもともと「井の口」と呼ばれていた地名を「岐阜」に、そして「稲葉山城」と呼ばれていた城を「岐阜城」に改めたといわれています。
1576年に岐阜城を息子の織田信忠に譲るまでの間、「天下布武」の朱印を用いて天下統一の志をかかげ、城下町の復興に力を注ぎました。経済政策である「楽市・楽座」など、当時としては斬新な政策により岐阜城下は大変なにぎわいだったそう。
しかし、1600年に関ヶ原の戦いの前哨戦の際、信長の孫である織田秀信が石田三成に勧誘され西軍の味方をしたため、東軍に攻め入られ、激戦の末に落城。岐阜城の代わりとして1602年に「加納城」が築城され、天守閣・櫓(やぐら)などは加納城に移されました。
現在の城は、1956年に復興され、岐阜市のシンボルとなっています。
最近では、医療従事者や地域の人たちを応援するために、感謝の気持ちとエールを込めたライトアップが行われて話題になりました。
- 岐阜城
- 岐阜県岐阜市金華山天守閣18
- 岐阜市公式サイト
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