京都にある「智積院(ちしゃくいん)」は、三十三間堂や京都国立博物館からすぐ近くにあるお寺。安土桃山文化を代表する画家・長谷川等伯の障壁画「桜楓図」が展示されており、利休好みの庭として名高い池泉回遊式の庭園が特徴です。
この智積院は豊臣秀吉や徳川家康とも関係が深く、実はかなり歴史の謎が隠されています。周辺には秀吉を神様として祀る「豊国神社」や、豊臣家が滅亡するきっかけとなった鐘のある「方広寺」、秀吉のお墓「豊国廟」などが点在しています。
そこで今回は、秀吉の死後、家康が秀吉と関係の深い土地にどう関わっていったのかなど、教科書では教えてくれない逸話を詳しくお伝えします。
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武将たちのヒストリーから見る「智積院」の由来
家康は秀吉の死後、秀吉に無残に滅ぼされた和歌山県の根来寺の玄有(げんゆう)という僧侶に、現在の智積院の建つ土地を与えました。これが智積院の由来です。
智積院のすぐ東側には、秀吉の眠る「阿弥陀ヶ峰」があります。京都市内から見て東の極に秀吉は葬られていて、太陽が昇る方角から神として再生する意味が込められているといわれています。
しかし、この阿弥陀ヶ峰の東西の一直線上に秀吉の神格化の邪魔をするように家康は玄有に土地を与えているのです。
阿弥陀ヶ峰から見て西側には直線上に秀吉を神として祀る「豊国神社」、秀吉が建てた日本一大きな大仏があった「方広寺」、秀吉が土地を与え大阪からこの地に移された浄土真宗本願寺派の総本山「西本願寺」などがあります。
智積院が建つ前は、この土地は秀吉によって建てられた「祥雲寺(しょううんじ)」というお寺がありました。
祥雲寺は秀吉の子、鶴松の菩提寺だった場所です。実は智積院の障壁画や庭園は元々祥雲寺時代のもので、梵鐘は豊国神社のものを引き継いでいるのです。
鶴松は秀吉の後継ぎとなる男の子でしたが、若干2歳という幼さで亡くなりました。秀吉は鶴松の死を大変に悲しみ、鶴松の死を弔うために豪華で巨大なお寺をこの地に建てたといわれています。
長谷川等伯作の障壁画は、この時代に客殿に描かれた障壁画であり、秀吉の息子の死を弔う目的ための大変豪華な障壁画となっています。秀吉の権利と財力を象徴するようなダイナミックさでとても豪華な絵画です。
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