授業では習わない、家康の本当の顔。京都「智積院」の知られざるヒストリー
徳川家康による秀吉神格化の阻止
大坂の陣で豊臣家を滅亡させた家康は、秀吉が建てた建物などを破壊したことで知られています。祥雲寺もその内のひとつでした。
秀吉は豪華な生活をしていたので、お金をたくさん使ってくれるおかげで京都や大阪は経済的にとても潤いました。そのため京都には秀吉に対して好意的な人がたくさんいたのです。
しかし家康は、「豊臣家を支持する人たちがたくさんいては、将来自分の地位を脅かすのではないか」と危惧していました。そのため秀吉が残した重要な建物を破壊して、人々の記憶から秀吉の存在を消し去ることに努めたのです。
家康は祥雲寺を取り壊すために、和歌山県の根来寺の僧・玄有に祥雲寺の土地を与え、お寺を造ることを許可しました。これが現在の智積院です。
根来寺は秀吉によって焼き打ちにされたお寺で、秀吉とは敵対関係にありました。家康はこうして秀吉に反発していた人たちを自分の味方にしたのです。
そして家康は、浄土真宗の第11世宗主・顕如の長男である教如に本願寺(現在の西本願寺)の東側の土地を与えました。
秀吉と親しくし、秀吉の色彩が色濃く残り、安土桃山文化の遺構が多く残されている西本願寺と、秀吉が神として眠る阿弥陀ヶ峰との間を割って東本願寺の建立を許したのです。
家康による智積院と東本願寺の建立の許可は、秀吉の神格化のための東西線を分断して、神への再生を阻止する目的があったとされています。
また、東本願寺の東にある「枳殻邸渉成園(きこくていしょうせいえん)」は、三代将軍である徳川家光が東本願寺13世宣如に土地を与えて隠居所としています。
通常、郊外に造るはずの隠居所を街の中心でかつ、阿弥陀ヶ峰と西本願寺の東西線上を分断する場合に建てさせたのです。これも秀吉の神への再生の阻止を強化したものと考えられています。
1615年、豊臣家が滅亡すると「豊国神社」と「豊国廟」は破壊されました。秀吉の墓は掘り起こされ、阿弥陀ヶ峰から「方広寺大仏殿」の裏に移し、神号は剥奪され、神ではなくただの人として仏教式により供養されました。
のちの発掘によると、秀吉の遺体は粗末な壺に入れられ、一般庶民の葬り方である屈葬の形で神の再生を阻止する西を向いていたことが分かっています。
死後、阿弥陀ヶ峰に葬られたときは、木管に豪華な副葬品とともに葬られ、生まれ変わりを祈って日の出方向である東向きに葬られたはずだったでしょう。近くには木管の破片も出土したといい、明らかに家康によって秀吉は改葬されたことが確認されています。
こうして徳川家は、豊国信仰を根絶やしにし、自らの神格化を強化したのでした。教科書で習った家康は温厚なイメージがありますが、とてもしたたかな人物だったことがうかがえます。
歴史は英語で「ヒストリー」で語源は諸説あり、ギリシャ語とラテン語の「ヒストリア」とされていますが、「His story(彼の物語)」とも読み取ることができます。
「彼」はというのは歴史上のヒーロー、時の権力者ということでしょう。
でもこうして権力者によって書かれたストーリー以外のことを知ってしまうと、ヒーローのイメージも随分と変わってしまうものですね。
- 総本山智積院
- 京都府京都市東山区東大路通り七条下る 東瓦町964
- 075-541-5361
- 京阪七条駅/JR京都駅よりバス10分
- 公式サイト
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- ※内容を一部修正しました(2020/10/26)。