日本の侍が初めてパリを旅したとき、彼らの目に世界はどう映ったのか

かつて日本人のが、初めてスフィンクスを見物した歴史的な瞬間がありました。遣欧使節団(第2回)がヨーロッパへ向かう途中で、紅海から地中海へ抜ける際に陸路でカイロを1864(文久4)年に通過。そしてピラミッドとスフィンクスにその際に一団が立ち寄り、記念写真が現代に残っています。

スフィンクス像前での池田使節団、1864年。image by:Antonio Beato, Public domain, ウィキメディア・コモンズ経由で

その池田使節団一行は地中海を通過し、マルセイユから「パリ」へ向かいました。しかしスフィンクスを初めて見た彼らも、パリを初めて見た日本人ではありません。

一団の到着から見て2年前、1862(文久2)年に初めて日本からヨーロッパへ派遣された第1回の遣欧使節団「文久遣欧使節」がパリへ足を運んでいます。

しかもこの一団には福沢諭吉も含まれていました。では、世界屈指の観光大国の首都であるパリへ日本人が初めて公式に訪れたとき、日本人の目にはどのように映ったのでしょうか。

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遣欧使節団とは何?

文久2(1862)年オランダにて。右から柴田剛中・福澤諭吉・太田源三郎・福田作太郎image by:不明な作者Unknown author, Public domain, via Wikimedia Commons

そもそもヨーロッパへと幕末に派遣された「遣欧使節団」とは何でしょうか?言葉のとおり欧州(ヨーロッパ)へ派遣された日本の代表団で、訪問の目的には外交上の狙いが常にありました。

『広辞苑』(岩波書店)には、

<君主または国家の代表として、地方または他国に派遣される使者>(『広辞苑』より引用)

とあります。

日本とフランスの関係に限っていえば、使節団がパリへ派遣されたタイミングは第1回の遣欧使節団(文久遣欧使節)が初めて。ただしフランスへの日本人訪問が初めてという話ではなく、パリへの訪問が初めてとの意味です。

1615(慶長20)年に仙台藩の伊達政宗がローマへ「慶長遣欧使節」を派遣しています。鎖国令が出る前ですね。


幕府ではなく仙台藩が使節団を派遣した理由については諸説あるようですが、メキシコを経由し、スペインに入り、イタリアへも向かって、その途中に南フランスのサン・トロペ港に寄港しています。

サン・トロペとは地理的にいえば、国際映画祭で有名なカンヌとマルセイユのちょうど中間地点にある港町です。この寄港が、日本とフランスの正式なファーストコンタクトだといいますが、サントリぺから陸路で約700kmほど離れたパリへは向かっていません。

最初のパリ訪問は繰り返しになりますが1861年(パリ到着は1862年)の第1回の遣欧使節団(文久遣欧使節)を待たなければいけません。

伊達政宗の使節団が渡仏してからおよそ250年が経過しています。この間に日本は鎖国体制となりフランスと日本の関係はほぼ途絶えたままでした。

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