日本から欧州へ。海を越えた鉄道「欧亜国際連絡列車」の知られざる歴史

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日本は島国です。海外に出掛けようと思うと飛行機に乗らなければいけません。しかし、明治時代には鉄道でも外国へ行けたとご存じでしょうか。一体、どんな旅だったのでしょう。そこで今回は、明治時代に存在した国際連絡列車をご紹介します。

敦賀で始まったロシアとの直行航路

ロシアとウクライナの戦争が始まる数年前、日ロ経済協力の一環として、シベリア鉄道を北海道まで延伸する話が持ち上がりました。

延伸の方法として、ロシアのサハリン(樺太)と北海道北端の宗谷岬との間(約42km)に橋を架ける、またはトンネルを掘るという話でした。

島国の日本にとって、あるいは鉄道ファンにとって大きなニュースになりましたが、日本にもかつて、ヨーロッパに通じる鉄道が存在したとご存じでしょうか。

さかのぼってみると、明治時代の時点で複数の路線が存在していたというから驚きです。一体、どうやって、どこから、ヨーロッパに向かって鉄道が走っていたのでしょうか。

当然ながら、日本は海に囲まれているので鉄道は走れません。冒頭の話のように、長大なトンネルを掘ったり、海峡をまたぐような橋を架けたりする技術は当時、ありませんでした。

1912年の敦賀港 image by:不明Unknown author, Public domain, ウィキメディア・コモンズ経由で

答えは、鉄道→船→鉄道を組み合わせた国際連絡列車です。代表的な路線としては、現在の福井県敦賀市を経由してヨーロッパへ向かうルートが存在しました。

日本海(敦賀湾)に面した金ヶ崎(敦賀港)は古くから天然の良港とされ、北前船の貿易などで栄えてきました。その敦賀に、1882(明治15)年、金ヶ崎(敦賀港)から長浜(琵琶湖の東岸)まで鉄道が開通したところから、「欧亜国際連絡列車」の歴史が始まります。

鉄道開通の出来事は繁栄を敦賀にもたらしましたが皮肉にも、その鉄道網が発達し、北陸本線が全通すると今度は、物流の中心だった敦賀をスキップするような商流が生まれます。


そこで、敦賀では、打開策として、直行航路の計画が、同じ日本海に面した極東ロシアとの間で持ち上がります。1890(明治23)年に建設が発表され、後に開通したシベリア鉄道に合わせる形で、ロシアとの関係模索が始まったのですね。

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