廃墟マニアも絶賛。長崎の西に浮かぶ第二の軍艦島「池島」の風景

画像提供:長崎観光連盟

「潜伏キリシタン関連遺産」の世界遺産登録で、注目を浴びている長崎県。

その長崎県にある炭鉱島といえば、一足先の2015年に世界遺産に登録された「軍艦島(端島)」のことがまっ先に浮かびますが、その近くに2001年まで炭鉱が操業していた島があることをご存じでしょうか。

その島の名は、「池島(いけしま)」。見学も可能な旧池島炭鉱の坑内や関連施設跡などは、世の「廃墟マニア」たちからも絶賛されています。

いまも炭鉱時代の様子が色濃く残るこの島に4度も訪問したことがあるという、全国の廃村を調べて旅する「Team HEYANEKO」代表の浅原昭生さんに、池島の炭鉱閉山直前から閉山10年後までの貴重な記録を寄稿していただきました。

「ここにしかない暮らし」があった九州最後の炭鉱の島 ~ 長崎県長崎市(旧外海町)「池島」

長崎県下 角力灘には、かつて炭鉱で栄えた島が点在します。象徴的な存在といえる端島(軍艦島)では、三菱高島炭鉱端島鉱が明治期に本格採掘を開始し、小さな岩礁に埋立て工事がなされて炭鉱集落が形成されました。そして昭和49年1月に閉山、同時に端島は無人島となりました。

ここで紹介する池島は、採掘開始時期が戦後で、平成期まで稼動していたことから、「九州最後の炭鉱の島」として語り継がれています。


Googleマップより、池島の位置。場所は西海市に近いが、実際には長崎市に属する

池島は、西彼杵半島沖約7km、面積1.06k㎡の小さな島で、炭鉱ができる前、自給自足の半農半漁集落(郷地区)は84戸323名(S.25)。現金収入は船員などとして出稼ぎで得ていたといいます。

三井系松島炭鉱は、昭和27年、池島近海の海底炭層の開発に着手、昭和34年10月、池島鉱は営業出炭を開始。


港に近い港地区と標高80mの台地上の鉱業所地区には四階建てを主とした多くの鉄筋コンクリート造炭鉱アパートが作られました。

最盛期の島の人口は7776名(S.45)、ピーク時の出炭量は153万トン(S.60)を数えました。農地や漁業権を失った郷地区の住民は、炭鉱やその関連の仕事に就き、炭鉱集落の一員となりました。

池島の空中写真(1974年撮影)WikimediaCommons © 国土画像情報(カラー空中写真)

平成期に入り、国の段階的な縮小政策においても最後まで残った池島炭鉱でしたが、平成12年2月、坑内火災で採算をとることができなくなり、平成13年11月ついに閉山。42年の炭鉱の歴史が閉ざされました。

平成14年からは炭鉱技術移転5か年計画が施され、平成19年からは三井池島アーバンマインによるリサイクル事業が展開されましたが、事業は平成24年までに休止となりました。池島の人口は段階的に減少し、平成30年4月現在、100戸132名となっています。

一方、平成15年には、旧炭鉱施設への修学旅行生の受入れが始まり、平成23年からは「池島炭鉱さるく」など旧炭鉱施設への観光ツアーが行われるようになり、島民や島に詳しい方の案内による炭鉱街の散策ツアーも実施されています。

平成27年、軍艦島が世界遺産になった影響もあり、来島者の数は増える傾向にあります。

photo by: 小島健一(HP『ようこそ炭鉱体験「池島」へ』より)

筆者は平成12年11月(閉山の1年前)、炭鉱の生活の匂いを求めて、ひとり初めて池島を訪れました。

そこには「日本中でここにしかない暮らし」があり、閉山後も「あの暮らしはどのようになったのか」気になり続けていました。

そんなことから、平成15年3月(閉山後約1年)、平成17年3月(閉山後約3年)と平成24年4月(閉山後約10年)、池島を再訪しました。

以下、画像を交えて、旅人が見たありのままの池島の姿をお伝えしようと思います。

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