【世界遺産】朽ち果てた廃墟「軍艦島」は生きてる間に絶対見たい
五島灘に浮かぶ「軍艦島」こと端島は、明治から昭和にかけ鉱業で大いに栄えた島でしたが、その炭鉱が閉山した後は無人島に。その後は長らく立ち入りが禁止されていましたが、2009年より上陸・観光ができるようになり、現在では長崎を代表する観光スポットのひとつとなっています。
無料メルマガ『写真で見る日本の歴史』では、そんな歴史好きにも廃墟マニアにも人気の高い軍艦島の今を、多くの写真ともに紹介しています。
かつては人口密度世界一、廃墟広がる無人島
洋上からの軍艦島
長崎で建造された旧日本海軍の軍艦「土佐」に姿が似ていたことから軍艦島と呼ばれたそうですが、正式には「端島」といいます。炭鉱の島として発展し、1960年には人口密度世界一(東京都の約9倍)となりましたが、炭鉱の閉山に伴って無人島になってしまいました。2015年に「明治日本の産業革命遺産」のひとつとしてユネスコの世界文化遺産に登録されました。
ドルフィン桟橋
日本初の離岸式桟橋。初代の桟橋は総工費2100万円をかけて1954年に竣工しました。しかし、その2年後の1956年の台風9号で流出してしまいました。2代目の桟橋も翌年に台風の被害を受けました。現在残っているものは3代目の桟橋。
第1見学広場から北を臨む
軍艦島は長く上陸できませんでしたが、2009年4月に上陸禁止が解かれ、各観光会社が軍艦島の見学ツアーを実施しています。実施に伴い、島の南側が整備され、第1~3の見学広場とそれらをつなぐ歩道が整備されました。第1見学広場から北へはこのような景色が広がります。
頂上は貯水槽
島の山を見上げたアングル。限られた見学施設や見学ルートのため、近づくことはできません。
3号棟
1959年完成の3号棟は幹部社員用のアパート(社宅)で、他に比べて新しい建物です。RC造の4階建てで、珍しく各部屋には風呂が完備されていました。
小中学校とコンベア跡
1957年完成の70号棟は端島小中学校です。手前に並んでいるのは石炭を運ぶベルトコンベアの足場。
端島小中学校(70号棟)
最盛期(1962)は児童生徒数はおよそ1170人。島で唯一のエレベータもありました。1~4階が小学校、5~7階が中学校でした。校舎の北側(写真では建物の向こう側)には運動場があり、運動会もそこで実施されていました。給食も実施されていましたが、海が時化るなどで島の定期船が途絶えると、非常食として備蓄してあったカンパンになりました。
ベルトコンベア
石炭を運ぶベルトコンベアがこの土台の上にありました。
第2竪坑坑口桟橋跡1
第2竪坑口桟橋跡。後ろからのアングルです。鉱夫たちはこの建物の中から地下へ潜って過酷な労働を行なっていました。
第2竪坑坑口桟橋跡2
見学路から第2竪坑口桟橋跡の建物を間近に見ます。「つわものどもが夢の跡」と思わず口に出てしまいそうな景色と建物です。かつて、毎日のように鉱夫達の仕事を見守ってきた建物とは思えません。その頃の賑わいがうそのような廃墟が目の前に広がっています。