【世界遺産】朽ち果てた廃墟「軍艦島」は生きてる間に絶対見たい
日本初の高層アパートも今は廃墟に
第3見学広場
写真は観光ルートの最も奥にある第3見学広場で、正面の大きな建物が日本初の鉄筋コンクリート(RC)造の高層アパートといわれる30号棟です。大正5年(1916)の完成です。
プール跡
水が抜かれていた時期は、この中は子供たちの遊び場になっていました。狭いゆえにローカルルールがあり、野球(ゴロ野球とよばれていた)では、打球をプールの外に出すとアウトになっていました。
炭鉱施設
第3見学広場近くの炭鉱施設建築は、島内地図によると列挙するだけでも「倉庫」「仕上工場」「下請住宅」「製缶場」「鍛冶工場」「会議室」など。そのいずれかであろうと推測できます。手前にも建物や瓦礫がきっとあったことでしょう。
30号棟
再三紹介される軍艦島の中でもひときわ目を引く有名な建物。日本初の高層アパートで大正5年(1916)の完成。7階建てで戸数は140ありました。この規模は、昭和20年(1945)完成の65号棟に次ぐ島内で2番目の大きさの住宅になります。中央は約6m四方の吹き抜けがあり、その周りに6畳一間と台所(かまど付)のいわゆる1Kタイプの間取りとなっていました。
31号棟アパート
昭和32年(1957)に竣工したアパートです。島の形状に合わせて真ん中で折れ曲がっています。かつてはこの場所に木造アパートがあったそうですが、台風で全壊して31号棟が造られました。この角度からは見えませんが、ボタ運搬用のベルトコンベアがこの建物を貫通していました。狭い土地を有効に活用しようとする工夫のひとつです。
小中学校とベルトコンベア
選炭場から貯炭場まで延びていたベルトコンベア跡。支柱のみ残されています。その奥の高い建物跡が旧端島小中学校。6階建てで後に7階建てになりました。昭和32年(1957)の完成です。
ベルトコンベア支柱
選炭場から貯炭場まで延びていたベルトコンベア跡。精炭(製品にする石炭)を運搬していました。選炭場で選別されたボタ(岩石や質の荒い石炭)は西側の海岸までトンネルが掘られ、31号棟の建物を貫通して海まで延びていたベルトコンベアから海に投棄されていました。
小中学校と65号棟
海上からの端島小中学校(70号棟:左)と65号棟。65号棟はコの字型になっており、増築を繰り返して軍艦島(端島)最大の建物となりました。写真では東棟(昭和24年(1949)完成)が映っています。南棟は水洗トイレが設けられており、「新65号棟」と呼ばれていました。また中庭は子供遊園地。屋上には保育園がありました。
端島神社
60号棟と61号棟の上に小さな祠が。往時は社殿もあったとのことですが、現在ではこの祠堂のみが残されています。端島神社は島唯一の神社で、毎年4月3日には山神祭が行われていました。
左から66号棟及び59~61号棟
59~61号棟は、島の北西部にあたり、外海と面しているため、台風等高潮の被害を受けやすいという理由で、護岸に対して直角に立っています。また、海に面した側には窓がありません。この3棟には地階が設けられており、購買会や共同浴場が設置されていました。
- 軍艦島(端島)
- 長崎県長崎市高島町端島
- 095-829-1314 (長崎市観光推進課)
- 長崎港から軍艦島上陸ツアー船に乗船し、約40分
- ※上陸ツアー等の情報はコチラ
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