世界中にホテルを展開するヒルトン・ホテル・ファミリー。そのヒルトンのなかでも最上級ホテルブランドといわれる「ウォルドルフ=アストリア」は、オープン当時、世界一の大きさを誇る高級ホテルでした。
今回は、そんな世界一と評されたホテルの歴史とアメリカを代表する大富豪たちの痕跡をご紹介します。何気なく通り過ぎていた建物に、実はこんな物語が隠されていたのです。
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- 【第1回】逆境に打ちかった不屈のホテル王「ヒルトン」が残した教訓
- 【第2回】誰もが旅を楽しむ時代をいち早く見据えていた「近代ホテルの父」の生涯
- 【第3回】志半ばで倒れたホテル王「セザール・リッツ」の成り上がり人生
- 【第4回】世界のホテル王「ヒルトン」はいかにして世界大恐慌を乗り越えたのか
- 【第5回】逆境こそチャンス。「ウェスティン」繁栄の礎を築いたホテルマンたち
- 【第6回】米国ホテルの栄枯盛衰。「グランドハイアットNY」を導いたトランプ物語
ヘンリー・ハドソン来たる
約1万年前に終わった氷期。その時代に、400mもの高さに発達した重たい氷河が大地を削り、大きな溝を形成した。やがて氷が溶けると、そこに大河が生まれた。1609年9月、イギリスの探検家がその川を北上していた。彼の名はヘンリー・ハドソン。
ゆるい流れの川を、流れに逆らってのぼっていく。左側には切り立った絶壁が続いている。
ヘンリーは望遠鏡で川辺りを見ていた。
「キャプテン、何かいるんですかい?」
「ああ、いるいる。かわいい子どもたちが」
「子どもたち!」
望遠鏡を目から外し、ヘンリーは微笑みを浮かべた。
「ビーバーの子どもたちだ」
「ここにもいましたか。そりゃ、大変なお金になりますねえ」
「この川が、俺たちを太平洋へと導いてくれないときは、ビーバーを持って帰ることにしよう。それで十分な報奨を貰えるはずだ」
当時、オランダ東インド会社は、大西洋から太平洋を拔け、アジアへと続く航路を見つけようとしていた。
その任務をヘンリー・ハドソンに託し、ハーフ・ムーン号を与えた。アメリカ大陸の大きささえもわかっておらず、「あれは大陸ではなく諸島だ」という説もあった。オランダ東インド会社は、地球の逆方向を回るルートを見つけることで、世界を一周する貿易網の構築を狙っていた。
「キャプテン、だいぶ川幅が狭くなってきています」
「ふーん。残念だが、この川は太平洋までつながっていないな。この時点で、狭くなってきているようでは…。また、やり直しをする。ビーバーを連れて、アムステルダムに戻るぞ」
当時、耐水性にすぐれているといわれていたビーバーの毛皮は、ヨーロッパで需要がとても高かった。ヘンリー・ハドソンの報告を受けたオランダ東インド会社はビーバー捕獲のため、西インド会社のスタッフをその地へ送りこむ。
そして、1625年4月22日、その島に要塞をつくることを決め、ニューアムステルダムを首都に定めた。そこから、ヨーロッパ人支配によるニューヨーク・マンハッタン島(1664年、ニューアムステルダムからニューヨークへと改名)の歴史が切っておとされることになった。