北アフリカに位置する、チュニジアの首都チュニス郊外にあるカルタゴは、地中海交易で栄えた古代都市です。
伝説によるとフェニキア人の都市国家ティルスの王の妹・エリッサが建設したとされ、その歴史は2800年前まで遡ることができるとか。そんな7世紀もの間続いた、「カルタゴ遺跡」をご紹介します。
世界遺産に登録されている「カルタゴ遺跡」
「ディドン(放浪者)」とも呼ばれた女王エリッサは、命を狙われティルス(現在のレバノンのスール)を脱出。キプロス島を経てカルタゴにたどり着き、街を建設したのが紀元前9世紀のこと。
カルタゴは、フェニキア語の「カルト・ハダシュト(Kart Hadasht)」、日本語で「新しい町」という意味だそう。
チュニジア政府は1987年に「カルタゴ建国2800年祭」を開催したことから、紀元前814年がカルタゴ建国年とされています。
海洋都市のカルタゴは、優秀な航海術を持ち、サルデーニャ島やマルタ島、シチリアにも侵攻していき大国となっていったのです。
しかし繁栄にも終わりがあり、紀元前3世紀から約100年続いた第一次から第三次ポエニ戦争でローマに敗れ、カルタゴはとうとう陥落。街は完全に破壊され塩で埋め尽くされ、不毛の地になってしまいました。
一旦は廃墟になったカルタゴですが、ローマのカエサルによって再建。アウグストゥスに引き継がれ、2世紀ごろにはローマ帝国第3の都市にまでなったのです。
しかし、ローマ帝国自体が5世紀には衰退し、7世紀にはイスラム教徒が侵攻してきて、カルタゴは衰退してしまいました。
カルタゴの中心地だった「ピュルサの丘」
一見、荒涼とした丘に見えるのは、カルタゴの中心地だった「ピュルサの丘」。ピュルサという名前の由来は、エリッサの機知を物語っているんです。
エリッサがこの場所に街を建設する際、先住人から「牛の皮(ピュルサ)一枚で覆うことができる面積の土地しか譲れない」といわれたのだとか。
エリッサはこれを了承し、1頭の牛を求めます。その皮を細く割き、細長い紐を作り、この丘の周りを囲い、丘全体を手に入れたそう。
比較的新しい建物は「サン・ルイ教会(アクロポリウム)」で、1270年の十字軍遠征中に没したフランス国王ルイ9世に捧げられたものです。
礼拝堂が置かれたのは1840年ですが、現在の大聖堂は1890年にフランスによって建てられたものになります。
カルタゴの遺跡のほとんどはローマ時代のものですが、ローマの遺跡の下に、それ以前のカルタゴの住居跡が見つかっています。
カルタゴの面影を残す遺跡トフェと古代カルタゴの港
住宅地の中にある遺跡は、カルタゴの面影を残す数少ない遺跡「トフェ(タニト神の聖域)」。
火の神バール・ハモン神(フェニキアの古代宗教神)、天と豊穣の神タニト(カルタゴの守護神)が祀られた聖域だったそうです。
現在残る遺跡には、生贄とも考えられている人の骨が入った「骨壺」が発掘された墓石がずらりと並んでいます。
ただの池のようにしか見えないですが、「古代カルタゴの港」は商業港と軍港がありました。
軍港は二重の防壁に囲まれていて、直接海から侵入できない造りになっていたそうです。発掘は1970年代に入ってからとのことですが、港の小島ではローマ神殿などが発掘されているのだとか。
カルタゴに残る広大な共同浴場「テルマエ跡」
2世紀にローマによって再建されたカルタゴに、五賢帝の一人アントニヌス・ピウス帝が造ったのが、海を背景にした絶景風呂の共同大浴場「テルマエ」です。
当時の建物は2階建てで、更衣室、温浴風呂、水風呂、サウナ、プール、噴水、談話室、トイレなど、100を超える部屋が左右対称に配置されていたそう。輸入された大理石がふんだんに使われ、華麗なレリーフが残されていて目を見張ります。
1階は冷浴室で、土台が海面から約5.6m、円柱の高さは約15m、ドームの天井高は約30mもあったとか。
ただ、現在このテルマエのお隣が大統領官邸なので、写真撮影はお気をつけて。向かって左側にちょっとでもカメラが向いてしまうと、カメラを取り上げられます。警備員さんもいますので、くれぐれもご注意を。
「カルタゴ遺跡」は世界的にも有名なので、名前はご存じの人も多いと思います。長い歴史を持つカルタゴは、遺跡もさまざま。
テルマエ以外、全景が想像できる遺跡は少ないですが、その場に立つといろんな光景が想像できるのではないでしょうか。チュニジアに行く機会があれば、ぜひ訪れてほしい遺跡です。
- 『カルタゴを建設するディド』image by:J. M. W. Turner, Public domain, via Wikimedia Commons
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