「華やかな北山」と「わび・さびの東山」。京都が見せる意外なふたつの顔
東山文化
東山文化は三代将軍義満の時代から80年近く経った後に栄えます。この時代は八代将軍義政の時代です。
この頃になると義満が描いていた公家中心の文化から武家中心の文化へと変貌を遂げていました。武家様式は庶民の間でも広く受け入れられるようになり、地方にも新しい文化として受け入れられた時代でした。
地方に広まった理由としては、応仁の乱によって京都に住んでいた公家や権力者が都から地方に避難し移住したことがあげられます。
東山文化の特徴は、禅宗様式が深まったことで北山文化とは対照的で「わび・さび」を基調とする簡素で幽玄な美が尊重されました。
東山文化の名前の由来は、義政が京都市左京区の東山に東山山荘を造営したためです。義政は政治的にはあまり有名ではありませんが、芸術に関する見識は非常に高かったようです。多くの芸術家のパトロンとなり、銀閣寺をはじめ東山文化の形成に大きく貢献しています。
義政が建てた銀閣寺の前身である東山山荘はとても質素で静かなものでした。そこは奥深さに美を見出すといった「わび・さび」の文化の集大成でした。
これが銀閣寺の起源となる建物となりました。正式名所は慈照寺観音殿銀閣です。応仁の乱の後造営を始めたので庶民の不満が募り義政のイメージはかなり悪くなりました。全国を巻き込んだ戦乱で人々が疲弊していたにも関わらず思い税や労役を課したので当然ですよね。
義満の時代に発展した水墨画は義政の時代に大成しました。禅僧の雪舟は中国から渡来した水墨画の技法を使って日本風の山水画を大成させています。代表作の有名なものに「四季山水図」や「天橋立図」などがあります。
そして何といっても禅の「わび・さび」の精神を茶に融合させたわび茶が流行しました。四畳半以下の茶室を用いた簡素な茶の湯の形式で、村田珠光によって創始されました。その後安土桃山時代には千利休により大成されています。
室町幕府は臨済宗を保護し、臨済宗の寺院に格をつけるために「五山・十刹の制」を設けました。中国の官寺を参考にしたもので、最上位の五山を中心に様々な文化が流行し、漢詩文学も栄えました。その影響が北山・東山文化に大きく影響していることが伺えます。
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いかがでしたか? 京都は日本人の知識と教養の宝庫です。これからもそのほんの一部でも皆さまにお伝え出来ればと思っています。
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- ※本記事は「MAG2 NEWS」に掲載された記事です(2017年8月4日)