押さえておきたい深い歴史。豊臣秀吉ゆかりの京都「高台寺」

北政所「ねね」

北政所は尾張の出身で、父は信長に仕えた杉原定利という足軽のひとりでした。夫・木下藤吉(秀吉)も元々は百姓の家出身ですが、ねねが出会ったころは父と同じく信長の足軽だったようです。

2人の仲を取り持ったのは、藤吉の親友だった前田利家でした。結婚、当初ねねは百姓生まれで、足軽の藤吉が天下人になるなどと思ってもみなかったでしょう。

ねねはそんな夫を長年陰で支え続け、天下人になるまでにした女性です。彼女は秀吉との間に子宝に恵まれなかったため、豊臣家のために秀頼を産んだ側室・淀君を立て、陰で夫を見守りました。

当時は、今よりも身分によって生活や行動が制限されていた時代です。ねねは武家の娘として生まれ、養子に出された先も戦国武将・浅野家で育ちました。

ねねは武家育ちという自分の身分を下げてまで、百姓上がりの秀吉を必死で支えたのです。しかし秀吉は、天下人になってからは側室・淀殿との仲を深めていきます。

やがて世継ぎ・秀頼が産まれ秀吉は益々ねねから離れていってしまいました。秀吉が天下を取り、見晴らしのいい場所にたどり着いた途端にねねの幸せは崩れ去っていきました。

昔はそのようなことが比較的当たり前だったといえ、ひとりの女性として心穏やかではなかったでしょう。

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高台寺は京都を一望できる東山の斜面にあります。ねねの道から台所坂を上った高台にあり、とても見晴らしのいい場所です。

高台寺の入口から少し離れた場所に「高台寺天満宮」という小さな神社があります。そこには恨みと怒りに満ちた菅原道真公が、祀られています。ねねはいつも心のよりどころとして、菅原道真公を崇拝していたのだとか。


それを知っていたねねの兄がここに社殿を造営したと伝わっています。優しいお兄さんですね。

天満宮は通常「学問の神様」として、庶民に親しまれています。しかしこの天満宮は、開運・出世・健康長寿・災難厄除のご利益がある場所とされています。ねねが秀吉と出世し、天下統一を果たしたことにちなんでいるというわけです。

ねねは、秀吉の死とともに出家して高台院となりました。豊臣家の安寧と末永い繁栄を願い、大坂城にいる淀君と秀頼の幸せを祈って静かに余生を過ごしていたことでしょう。しかし、実は淀殿と秀頼には怒り心頭で、天満宮に祀られた怒りに満ちた道真公に手を合わせていたのかもしれません。

考えてみたら、関ヶ原の戦いは秀吉に忠誠を誓った武将が多くいたのは西軍で、勝ったのは徳川家康がいた東軍です。

ねねは徳川家康の味方をしていたのです。ねねは、豊臣側の武将たちに人望が厚く母親のような存在だったにも関わらず、徳川家康に味方したのです。

大坂城が炎上し秀吉の息子・秀頼と淀君が亡くなり、豊臣家が滅亡した大阪夏の陣のときもねねは家康の味方。大坂城を攻める前に家康は、高台寺に立ち寄ったといわれています。ねねはそのとき、家康に戦の世が終わり平和が訪れるためにはやむを得ないと、家康の大坂城攻めに理解を示したそう。

ねねは秀吉亡きあと、家康によって保護され高台寺の地を与えられています。秀吉に忠誠を誓ってきた武将を差し置いてまでも家康に味方をしたのは、平和への思いが強かったからだったのではないでしょうか?

秀吉亡き後、ねねの心のどこかには豊臣家滅亡の願いがあったのかも知れません。自分に背を向け側室である淀君との間に生まれた秀頼がいなくなればと。事実はともかく、歴史というのは人それぞれ思いを馳せることのできるロマンがありますね。

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春は桜、秋はもみじの名所で高台にあり、京都市内が一望できる場所にある高台寺。昔は大坂城まで見渡せたと伝わっています。

ねねの気持ちに想いを馳せて高台寺から見下ろす景色は、また違った京都が見渡せるのではないでしょうか。

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