実は謎が多い…京都「五山の送り火」に秘められた数々のミステリー

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2023/08/18

京の夏の風物詩として知られる「五山の送り火」。京都の人には馴染み深い伝統行事のひとつですが、実はこの五山の送り火には幾つも“謎”があるのをご存じでしょうか?

そもそも、いつごろ始まり、なぜ山に灯りで「大」の文字が描かれるのか……。今回は民俗学に詳しい佛教大学の八木 透先生のお話をもとに、今もなお“謎”を秘めた五山の送り火に注目してみました。

そもそも「五山の送り火」とはどんな行事?

image by:photolibrary

五山の送り火とは、京都の人々にとって大切なお盆の行事の一つです。

京都ではご先祖様の霊を、親しみ込めて「お精霊(しょらい)さん」と呼び、お盆を控えた8月7〜10日には六道珍皇寺や引接寺(千本閻魔堂)で六道参りが行われ、8〜10日には六波羅蜜寺で「萬燈会(まんどうえ)」などのお精霊さんをお迎えする行事が行われます。

お迎えしたお精霊さんは8月13〜16日の間、家でおもてなしをして、最終日に再び冥土へお見送りします。このお見送りの行事が五山の送り火なのです。

五山の送り火にはさまざまなご利益があると伝わっています。そして、京都府内では他の市町村でも大文字の点灯を行っており、京都府民にはとても馴染み深いお盆の行事となっています。

当日は20時に如意ヶ嶽の「大」が灯され、約5分置きに松ケ崎西山・東山の「妙・法」、船山の「舟形」、大北山の「左大文字」、曼荼羅山の「鳥居」と東から西に向かって点火されます。

五山の送り火「始まり」の謎

京都のお盆行事として根付いている五山の送り火ですが、実はその始まりについて確かなことはわかっていません。

しかし、送り火の代表的な「大」の文字の始まりには平安初期・室町中期・江戸初期の3つの俗説があるといわれています。

「平安初期」説

image by:illust AC

まず1つ目は、平安初期に弘法大師・空海が始めたという説。


その昔、如意ヶ嶽の麓にあった浄土寺が大火に見舞われた際、本尊である阿弥陀佛が山上に飛翔して光明を放ったことから、その光明を後世に残そうとして弘法大師が放射線状に近い「大」の字を書いたというものです。

この空海の起源説については複数あるそうですが、いずれも書物などに残されておらず信憑性は低いとされています。

「室町中期」説

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2つ目の説は、室町中期に銀閣寺をつくった第8代将軍・足利義政(あしかがよしまさ)が24歳で病死した息子の義尚(よしひさ)を弔うために、相国寺(しょうこくじ)の和尚に頼んで「大」の字の松明を灯したというもの。

この説の面白いところは、如意ヶ嶽が銀閣寺の裏山であるということと、「大」の字が描かれている角度が室町時代に人が多く住んでいた現在の四条通に向かってではなく、出町柳辺りから正面に見えるように描かれているところにあります。

この方角には義尚のお墓がある相国寺があります。そう考えると義政が息子のお墓に向かって「大」の文字が一番綺麗に見えるよう、火床を作ったのではないかと考えられます。

そして、この時の点灯はこの年の1回きりだったと思われます。なぜ送り火が継続されなかったのか……義尚が亡くなった1489年の翌年、父・義政も亡くなっていることから、大文字を継承するものがなく、1年しか灯らず記録には残らなかったのではないかと推測されます。

しかし、大文字の送り火に関する古文書や如意ヶ嶽が銀閣寺領であったという資料が銀閣寺から発見されていることから、地元では室町中期に足利義政が始めたという説が根強いとされています。

「江戸初期」説

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3つ目は江戸初期の公家・舟橋秀賢(ふなはし ひでかた)の日記『慶長日件録』に記された「晩に及び冷泉亭に行く、山々灯を焼く、見物に東河原に出でおわんぬ」というもの。

こちらは1603(慶長8)年7月16日の条に記されており、その後、年を追うごとに他の送り火について記述された文献が発見されていることからも、現在のように毎年大文字が灯るようになったのはこのころからだといわれています。

「大」の文字の謎

image by:六波羅蜜寺

「大」の文字が描かれる理由についても諸説あるそうですが、弘法大師が大の字型に護摩壇を組んでいたことに由来する説や、六道珍皇寺の近くにある六波羅蜜寺の萬燈会の「大」を模した説(写真参照)などがあります。

萬燈会「大」の文字は中国の古代思想である「五大(地・水・火・風・空)」に由来するものと考えられており、宇宙を構成する主要な5つの要素を意味しています。

image by:六波羅蜜寺

六波羅蜜寺といえば某コマーシャルでお馴染みの空也上人立像があるお寺です。萬燈会は、平安時代に寺を開いた空也上人が963年に行った大萬燈会が起源とされており、1000年以上昔からあるといわれています。

本堂内の「大」をかたどった炎はお精霊さんをお迎えすることから、これを山に灯したのが大文字山の「大」ではないかという説は有力な気がしますね。


「幻の送り火」の謎

現在、五山の送り火では5つの文字や形が灯されていますが、明治初期には鞍馬方面に向かう市原という村にひらがなの「い」の字、鳴滝の方の龍安寺から仁和寺の近くに漢字の「一」、西京区の西山には「竹の先に鈴」がぶら下がった絵などがあったといわれています。

しかし、どの山にいつごろまであったのか分かっておらず、これらは「幻の送り火」といわれています。

ではなぜ幻となってしまったのか? その理由として、送り火は村で不幸があった年に、その家の人が中心となって灯していたもので、その後不幸が続かなければどのように送り火をしていたかが伝わらず、そのまま分からなくなってしまったのではないか……と考えられています。

また、明治に入り神仏分離が推し進められる中で神道が保護される一方、廃仏毀釈という仏教弾圧の風潮が生まれ、送り火をしてはならないという法律ができた時に消えてしまった可能性があります。毎年灯っている送り火は、こういった廃仏毀釈を乗り越えて現在に残っているものなのですね。

五山の送り火に秘められた謎はいかがでしたか?歴史の中でどのように五山の送り火が行われてきたのか想像すると、ロマンを感じますね。

今年も、お盆の時期に京都では送り火が灯ります。人の手で脈々と受け継がれてきた京都の文化を、皆さんもぜひ、ご覧になってください。

■■記事監修■■

佛教大学歴史学部歴史学科 八木 透 教授

image by:佛教大学

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  • source:KYOTO SIDE
  • ※掲載時の情報です。内容は変更になる可能性があります。
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