大正時代に無くなってしまった幻の藍「京の水藍(京保藍)」を訪ねて

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2020/02/13

2020年東京オリンピックのエンブレムにも使われている藍色。藍色は古くより日本人が愛してきた藍染めによる色で、世界でも日本を表す色「ジャパン・ブルー」として知られています。

その藍染めの原料となる植物の「藍」の栽培は古くより徳島が有名。でも実は全国で生産されており、かつては京都駅の南側一体でも栽培されていたんですって。でも今では全く生産されていない「まぼろしの藍」となっていました。

ところが数年前、藍染め職人の吉川慶一さんが遠く徳島でその、まぼろしの種に出会い亀岡市で栽培。「京保藍」と名づけました。一体、どんな藍なのでしょうか。亀岡の工房を訪ねてきました。

偶然にして必然に満ちた、まぼろしの藍との出会い

この「京保藍」を育てているのは吉川慶一さん。嵯峨美術短期大学で版画を専攻した吉川さんは卒業後、染織の世界に飛び込み、京都の有名な染織工房で働いたのちに藍染め職人として活躍していました。

そんな工房で働いていた若かりしころ、染織の専門雑誌で「京の水藍(きょうのみずあい)」という、まぼろしの藍について書かれた記事を目にします。

それによると、かつて京都の東寺から上鳥羽辺りまで「京の水藍」と呼ばれる藍が盛んに栽培されていましたが、大正時代、化学染料の輸入や戦争により生産が途絶えてしまったそうで、明治時代の小学校教員の給料が30円、徳島の藍は57㎏35円なのに対し、なんと京藍は57㎏85円だったのだとか。この記事を読んで「その京の水藍って、どんなものなんだろうってずっと思っていたんですよ」。

藍が発酵するときにできる泡は「藍の花」と呼ばれ良い藍である証拠

その後も仕事のかたわら「京の水藍」について調べたりするも全く手がかりがなく、月日は流れます。そして60歳になったのを機に「ずっと藍に生活を支えてもらったので、藍に恩返しをしたい。そのためには藍を育て、その藍で染め、のちに続く職人や藍農家を増やしたい」と思うように。

藍は空気にふれることで酸化し藍色になる

そのために徳島と同じく藍の一大産地である沖縄を訪れたり、京都府福知山市の藍畑で教えを受けたりとさまざまな藍の産地を訪れました。そんななか、仲間に「徳島の藍生産者を紹介してもらったので会いに行こう!」 と誘われます。

それが、なんと徳島の藍職人で国選定阿波藍製造無形文化財 現代の名工の十九代目藍師 佐藤昭人さんでした。「テレビなどで拝見していても本当に厳しい方で。種を分けていただいたいのですが藍をやり始めたばかりの私に種を分けてもらえるのだろうか、育てさせてもらえるのだろうかと不安でした」。


種を水のなかにつけておくだけで芽がでてくる

ところが会って話をしていくうちに、佐藤さんが育てている藍は吉川さんが探し求めていた「京の水藍」ということが判明!というのも、佐藤さんのお祖父さんが昭和16年に京都へ訪れたとき、「京の水藍」の生産者から種を託されたのです。

ときは第二次世界大戦真っただ中。非常時に食料ではなく藍を育てていると非国民だといわれる時代です。しかし、藍の種は2年植えないと発芽しなくなってしまうのです。そこで佐藤さんのお祖父さんは種を持って帰り、大切に育ててきたのだそうです。

たわわに付いた藍の種

その、まぼろしの種が目の前に!!「お目にかかったとき、その場で種はいただけなかったのですが翌朝、佐藤さんから電話があり種を送ってくださったんです」。とはいえ、まだそんなに多くの土地はありません。近隣農家に頼み込み、なんとか土地が用意でき翌月から栽培をスタートしました。

吉川さんが昭和58(1983)年に見た雑誌に載っていた「京の水藍」。職人として邁進し60歳になり、今度は藍に恩返しをしたいと思った矢先に出会うとは!これはもう運命ですよね。そして京都の「京」、保津川の「保」ととって「京保藍(きょうほあい)」という名前をつけ、「ほづあい研究所」を立ち上げました。

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