英語力を伸ばすには?世界で報じられた「日本の英語教育」から学ぶこと
言語の変化は「英語」に限ったことではない
もちろんこうしたことは英語だけに限ったことではありません。例えばいま北朝鮮と韓国とで、すでに韓国語の表現や語彙がかなり異なってきていることがソウルではよく話題になっています。
言語は10年ごとに更新しないかぎり、常に進化し、変化するのです。日本語の事例では、「やばい」という言葉は、20年以前は「まずいこと」をしたときに使う表現でした。
しかしいまでは、心が動かされ感動したときに使用されることが多いことはよく知られています。日本語が得意な海外の人がいまこの言葉を聞けば誤解してしまうかもしれないのです。
これらの事実を加味しながら、グローバルな時代に我々に求められている語学教育とは一体何なのか考えてみます。
ここに記した事実と現実を無視して無理やりアカデミズムの綱で縛り付けて、文法や発音の成否だけを強調する現在の英語教育をもっと柔軟にしてゆく必要はないのでしょうか。
特に英語の場合はそれがグローバルな言語で、世界中の人々がそれぞれのニーズで使用しているのだということをしっかりと教育してゆく必要があるはずです。
それはスポーツ教育と似ています。卓球を例にとれば、基本動作や試合に臨める基礎体力についてのトレーニングは欠かせないでしょう。
しかし、同時に相手からの思わぬボールを受けたとき、それに対応するための俊敏性や瞬間的な判断力、対応力への訓練も欠かせないはずです。
さらに、人によって異なる個性ある攻め方や守り方への対策についても、いかに早く相手の個性に慣れてそれに打ち勝つための柔軟性を育成する教育も必要なはずです。
現在の英語教育で最も欠けているのは、これらのことで、それは基礎トレーニングと同じ比重、あるいはそれ以上に大切なのです。
そして、意外なことかもしれませんが、日本人の話すアクセントや英語表現をインド人のように堂々と拡張し、世界の自動翻訳やAIでの発音のデータベースにも積極的にインプットしてゆくようなダイナミックな対応も必要なのです。臆することなく、自分の英語にプライドを持って堂々と世界語である英語の輪にはいる姿勢を学ぶべきではないでしょうか。
ロンドンではイギリス人よりも他国からの移民の数の方が多くなっています。ですからイギリス英語もどんどん変化しています。当然シリコンバレーではその傾向がさらに顕著です。同様の傾向は世界の主要な産業拠点すべてでいえることです。
変化を嫌うアカデミズムと受験教育での英語がゆえに、海外との交流にコンプレックスを持つ日本人がまず学ぶべきことは、人と話せる話題を持ち、相手の懐に飛び込んで会話の輪に入る柔軟性を磨くことに他なりません。
既得権益を享受する塾教育や視野の狭い高校のなかだけで呼吸する教師に頼る英語教育を打破するにはどうすればよいのでしょう。海外と少しでも本気で対応したことのある人なら、ため息や怒りと共に、現状打破へのチャレンジ精神を失わないようにしてもらいたいのです。