不可能を可能にするんだ。明治の最新技術の結晶、世界遺産「韮山反射炉」
静岡県「韮山(にらやま)反射炉」の紹介において、「23」という数字が何を示すものであるかパっと思い浮かぶ方は、どれくらいいらっしゃるでしょうか?
韮山反射炉と聞くと「世界遺産に登録されている」ということや、その名から「鉄を溶かすことができる加熱炉」であると推測できても、実際に何をしたところかという点については知らない方が多いかもしれません。今回はその興味深い歴史について、改めて迫ってみましょう。
明治の日本を支えた「韮山反射炉」
実は「韮山反射炉」、その建物単体で世界遺産に登録されているのではなく、「明治日本の産業革命遺産 製鉄・製鋼、造船、石炭産業」という産業革命遺産群のひとつとして登録されています。その産業革命遺産群というのが、前述の数字「23」の遺構から成るのです。
「明治日本の産業革命遺産 製鉄・製鋼、造船、石炭産業」に含まれる反射炉の遺構は、山口県の萩反射炉、鹿児島県の旧集成館、及び静岡県の韮山反射炉の3つあります。
しかしながら実際に鉄を溶かすのに使用され、ほぼ完全な状態で残っているのは韮山反射炉だけなのです。このため製鉄の産業革命遺産として、非常に貴重な建造物とされています。
韮山反射炉は何のために建てられた?
韮山反射炉は1840(天保11)年のアヘン戦争を契機に課題とされてきた日本の軍事力強化に起因して、鉄製大砲製造のための加熱炉として必要性が検討され、1854(安政元)年から、江川太郎左衛門英龍(えがわたろうざえもんひでたつ)の指揮の下に建造が開始されました。
しかし建造途中で英龍が逝去したため、建造の指揮は息子の英敏(ひでとし)が引き継いだのです。ところが、当時10代だった英敏では経験が不足していたこともあり工事が難航。幕府を通じて佐賀藩の協力を経ることとなり、結果1857(安政4)年に竣工したのです。
韮山反射炉では実際に銑鉄の溶解が行われ、南部産銑鉄により鋳造した18ポンドカノン砲の試射が成功したと記録されています。