京丹波町が“蹴鞠の里”に!?KEMARI文化を未来へつなぐ鞠師夫婦を訪ねて
奥深い歴史と精神性に魅せられて、重なり合った二人の蹴鞠ライフ
実技と衣装のあらましを教わったあと、「小竹荘ギャラリー」と銘打った母屋のギャラリーへ通していただきました。
室内には、このあとご紹介する游達さんお手製の「鹿革鞠」をはじめ、蹴鞠に関する資料や蒼圭さんが描いた書画などが展示されています。こちらでお二人と蹴鞠の関わりについてお話をうかがいました。
まずは游達さんが蹴鞠を始めたきっかけから。游達さんは少年時代から野球に打ち込み実業団チームに所属していたそうですが、20歳でその道を断念。
それでも「何か体を動かすことがしたい」と考えていた矢先、たまたま知人の紹介で蹴鞠を見学する機会を得ます。伝統文化や歴史にも興味があった游達さんは「面白そう!」とすぐさま蹴鞠の世界に飛び込みました。
どんどん蹴鞠にのめり込んでいった大工職人の游達さんは、「蹴鞠のために仕事を選んできた」とか。「土日の行事やお稽古の時間を確保しやすい」という理由から大工の仕事を選択し、その甲斐もあって(?)、蒼圭さんという蹴鞠と人生のパートナーにめぐり会うことができました。
「たまたま実家の雨漏りの修理にやってきて、今度、蹴鞠の行事があるから観に来ませんか?って誘われたんです。和の芸事が好きだったので、つい誘いに乗ってしまいました(笑)」
蒼圭さんは子どものころから書道や空手、剣道などを嗜んでいましたが、蹴鞠にはほかにはない特別な魅力を感じたと言います。「勝ち負けを競わず、常に相手を思いながら鞠を蹴り繋ぐ蹴鞠道の精神性が心に響きましたね」。以来10年以上、その精神性を胸に刻み、游達さんとともに蹴鞠の上達を目指してきました。
一方、游達さんは蹴鞠にのめり込むあまり、蹴鞠の研究にも取り組むように。史料を集めたり、数少ない研究家と交流を持ったりしながら、蹴鞠に関する知識を吸収していきました。特に注目したのは、蹴鞠の歴史的な変遷です。
「蹴鞠は1450年程前に中国から仏教とともに伝来したといわれています。賀茂社の神職から公家に伝わり、平安時代中頃までは貴族の遊びとして流行しました。現在の蹴鞠のイメージはそのあたりでストップしていると思うのですが、実際は時代とともに形を変えながら、武家社会、さらには庶民の間にも浸透し、広く親しまれていた国民的遊戯だったのです」
游達さんによると、蹴鞠の実演で触れたような「蹴鞠道」の基礎がつくられたのは鎌倉から室町時代にかけて。上皇や天皇の前で蹴鞠を披露するため様式化が進んだと考えられています。
ただ、現在の鞠装束や蹴り方(傍身鞠:みにそうまり)は、庶民の間で流行した江戸時代に確立されたもの。伝統文化といえども、時代ごとに新しいエッセンスを取り入れて発展を遂げてきたのです。
そうして蹴鞠の軌跡をたどるなか、江戸時代の京都に鞠をつくる鞠師の工房が数軒あったことを知ります。「昔の製法を調べて自分で作れたら、思う存分練習ができる!」。マイボールならぬマイ鞠欲しさに調査を進めますが、製法に関する史料は乏しく、得られたのは口伝のわずかな情報のみ。「3歳半から4歳の雌鹿の皮」を「糠と塩で揉んで」「半鞣(はんなめし)にする」というものでした。
不思議な縁に導かれ京丹波へ。伝統的な「鹿革鞠」の作り手に!
「半鞣とは一体、どんな状態を意味するのだろう?」。試みようにも、適当な鹿皮を手に入れる術がなく困り果てていたとき、小さな新聞記事に目が留まりました。
「猟師直伝 ジビエハンターガイドブック」という、京丹波町でジビエの処理施設を営む猟師の著書を紹介する記事です。游達さんはその記事を手に猟師のもとを訪ね、鹿皮を分けてほしいと願い出ました。
鞠づくりの熱意が伝わり、鹿皮の入手ルートを確保できたところに、さらなる朗報が。猟師のつてで京丹波町内の空き家の情報が舞い込んできたのです。2017年当時、お二人は京都市内で暮らしていましたが、住宅が密集する地域で皮の加工をするのは難しく、どうしたものかと考えあぐねていた矢先のことでした。
「新聞記事を見たのが2017年の3月で、京丹波町へ引っ越したのが同じ年の10月。家の売買もとんとん拍子に運んで、今思うと何かに導かれてここへ来たような気がします」
そう話す蒼圭さんも念願の鞠庭や書画のアトリエを持てる新生活に大賛成でした。游達さんは大工経験を活かして家中をリフォーム。納屋の2階に鞠づくりの工房を構え、本格的な鹿革鞠づくりに取り組むこととなりました。
昼も夜もなく工房にこもり、半鞣に挑み続ける毎日。蒼圭さんも心配するほど一心不乱に試行錯誤を繰り返し、2018年2月、ようやく鹿革鞠第1号が完成しました。皮加工の薬品類は一切使わず、昔ながらの材料と手仕事で復活させた鹿革鞠です。
「軽くてしなやかで、蹴ったときの反発力もほどよい鞠の感触を思い描きながら、糠と塩の配合や力加減を調節し、自分なりの“半鞣”を再現することができました。しかし3歳半の雌鹿でも個体によって皮の厚みや柔らかさが違うので、同じやり方が通用するとは限りません。毎回手探りなのは今も変わりませんが、最初のころより形も蹴り味も良くなっているのは自分でもわかります。プレイヤーですからね」
聞けば、江戸時代の鞠師も蹴鞠の名プレイヤーだったのだとか。上手に蹴ることができるからこそ、よりよい鞠になるよう自己研鑽を重ねていたのでしょう。そうやって鞠師がそれぞれ秘伝の技で腕を競い合っていたため、後世に受け継がれなかったのでは?と游達さんは推測しています。