日本で一番多いとされる「八幡神社」と、発明王エジソンの意外な関係
どんな神様が祀られているのか?
先ほどお伝えした通り、1155年ほど前の859年、豊前大分宇佐宮から移られた神様を祀っています。明治維新までの間、神仏が和して集合する時代(神仏習合)に、最も顕著な神様が八幡様でした。
1400年間続いた神仏習合の時代に常に八幡大菩薩として称えられていたのです。
本社には応神天皇、比咩大神(ひめおおかみ)、そして応神天皇の母・神功(じんぐう)皇后が祀られています。
神功皇后は京都ではとても有名な女性の一人で、いくつもの由緒ある神社で祀られているのを目にします。
祇園祭の33ある山鉾の中でも、船鉾、大船鉾、占出山(うらでやま)と3つの山や鉾の御神体となっています。いずれの場合も神功皇后は安産の神として崇められていることが多いです。
その昔、新羅征伐の時に、身重にも関わらず船に乗り戦の陣頭指揮をとって勝って凱旋した言い伝えがあります。(今では祇園祭も世界遺産に認定され、世界中から観光客が訪問するので日韓関係に配慮し、「東征」という説明に留めています。)
そのため、祇園祭の山鉾巡行の時はそれぞれのご神体で神功皇后のお腹には幾重にも岩田帯が巻かれています。その帯は祭りが終わるとほどかれ、妊婦の参拝者達に授与されます。
神功皇后はまた、戦の行方を占うために九州の備前にある松浦川で鮎を釣って戦勝の兆しとしたといいます。それ以来、鮎という漢字は魚へんに占うという字があてられるようになったそうです。
これが500年以上前から占出山町が出す山、占出山(別名鮎釣山)の題材であり、由来になっています。
船鉾に乗る神功皇后は出陣の船を題材にしているので、幾重にも岩田帯を巻いた上に甲冑姿に身を固めています。
一方、大船鉾に乗る神功皇后は戦に勝って凱旋する時を題材にしているので、岩田帯の上は狩衣姿です。
戦が終わるまでお産を遅らせるのにお腹を冷やすために用いられたと伝わる石が松尾大社の摂社・月読神社に祀られています。
京都はこのように知れば知るほどどこまでも話がつながっていくのがとても面白いものです。それが実話であろうが無かろうが、真実を追求しようとするのは野暮ってものです。笑
さて、話が少し脇にそれてしまいましたが、肝心の社殿をご説明します。