歴史散歩にぴったり。江戸文化の香りが残る「東京・日本橋」地名散歩
小舟町から人形町、蛎殻町、箱崎町へ
寄り道はこのへんにして、ここからは日本橋川の下流を目指し、人形町および日本橋蛎殻町、日本橋箱崎町、その先の隅田川方面へと向かいます。
まず日本橋本石町から日本橋魚市場のあった日本橋室町1丁目、日本橋本町方面に戻り、日本橋川沿いに日本橋小舟町へ入ります。
本町から昭和通りを渡ったあたりから始まる日本橋小舟(こぶな)町というのは、いかにも日本橋川に面した土地柄のにじみ出た町名です。
小舟町は1720(享保5)年に発生した町名とされますが、100年ほど前の17世紀初頭にはいったん「下舟町」の名称で町割されていたそうです。
現在の昭和通り(かつてこの下を西堀留川が流れ、船が行き来していた)を挟んで、日本橋本町1丁目あたりには江戸時代に大船町がありました。日本橋川よりむしろ、今はない西堀留川のほうに近かった下舟町はやがて、大船町の対岸の位置にあることから「小舟町」に改称されたようです。
日本橋川に沿った道筋を小舟町交差点まで進み、内陸寄りに進路をとれば、やがて人形町通りと交差する地下鉄・人形町駅前交差点にたどり着きます。ここで右折し、人形町通りを水天宮方面に向かうと、日本橋蛎殻町、日本橋箱崎町はもう指呼の間。さらに日本橋箱崎町を過ぎると、道はいよいよ隅田川へと向かいます。
と、その前に、今も常ににぎわい華やぐ人形町を、少しじっくり歩いてみましょう。人形町には江戸時代初期に猿若座が開かれたのをキッカケに、村山座、中村座、市村座などがエリア内にできていき、江戸歌舞伎発祥の地としての歴史を歩みます。
芝居はなんといっても、江戸の娯楽の代表。エリア内には芝居小屋だけでなく、大道芸人が多く立ち、雑多な見世物小屋の類とともに、さまざまな飲食店、土産物屋、呉服屋などなど、芝居見物の人々を目当てにしたあらゆる種類のお店が集まるようになりました。
さらに人形芝居(浄瑠璃など)の小屋も建ったことから、各種の土産物用の人形を扱うお店もできていき、名所図会などにも「人形丁」と描かれるようになっていきます。
日本橋の奥座敷的なにぎわいが日常化したこのまちに、正式に人形町の町名が付いたのは1933(昭和8)年。蛎殻町、松島町、元大坂町、芳町など界隈7つの町が合わさり、人形町に再編されたのでした。そして江戸時代以来のにぎわいの面影は、甘酒横丁などをはじめ、現在の人形町の路地や辻のそこここに残されています。
人形町のにぎわいはそのまま、人形町通り沿いに鎮座する、安産祈願で有名な水天宮の周辺にも及んでいます。さて、人形町通りのにぎわいを堪能し、水天宮をお参りしたら、そのまま通りを進んでください。江戸時代に海を埋め立てられてできた蛎殻町、さらには箱崎町へと至ります。
蛎殻町の町名は1872(明治5)年に正式に誕生しました。なぜ蛎殻町なのかは明確でありませんが、このエリアは江戸時代の埋立地です。牡蠣殻のたくさん埋まった大地の上にできたような町という意味合いの俗称として、江戸時代には蛎殻町の呼び名がすでにあり、それがそのまま採用されたといわれています。
日本橋蛎殻町に隣接する日本橋箱崎町は、蛎殻町とは対照的に江戸時代初期から続く古い町名です。このあたりは江戸時代、隅田川河口に面した水郷のような土地柄で、箱池とも箱崎池ともいわれる池があったから箱崎町になったという説が知られています。
あるいは深川八幡宮の祭礼の際には、神輿船が箱崎町にまで巡行する習慣などがあったことから、箱崎町にはかつて箱崎八幡宮(筑紫=福岡)の末社などがあったのではないかとする説もあるようです。