歴史散歩にぴったり。江戸文化の香りが残る「東京・日本橋」地名散歩
有名なリーフデ号事件と八重洲、日本橋との関係とは?
さて、日本橋3丁目交差点にはもう一つ、町名の歴史を伝える物件があります。東京駅八重洲中央口(中央区八重洲1丁目)前から始まる八重洲通りの中央分離帯は、ちょっとした緑地帯になっています。そこにヤン・ヨーステンというオランダ人と「八重洲」という町名の関わりを記念した碑が設置されているのです。
中央区八重洲という町名は1954(昭和29)年生まれ。比較的新しいものです。しかし、1929(昭和4)年まで千代田区にも八重洲という町名があり、それは江戸城外堀にあった「八重洲河岸」にちなんだ町名でした。
関ヶ原の戦いの前年にあたる1600年(慶長5年)、オランダ船・リーフデ号が日本近海で座礁します(日本史の教科書で有名なリーフデ号事件)。その後さまざまな経緯があって、救助された乗組員たちのうち、三浦按針(みうらあんじん)の日本名を与えられるウイリアム・アダムスと、耶楊子(やようす)の日本名を与えられるヤン・ヨーステンの2人が、徳川家康の家来(貿易顧問・国際関係アドバイザー)として召し抱えられます。
そして江戸城外堀(和田倉濠)にあった「八重洲河岸」の名称は、付近の堀端にヤン・ヨーステンが屋敷を構えていたことから、ヨーステンの日本名「耶楊子(やようす)」にちなみ、音が似ていて縁起も良さそうな「八重洲(やえす)」になったとされています。
その「千代田区八重洲」の町名が1929(昭和4)年に消滅した代わりに、同年、東京駅(1914=大正3年開業)に東口が新たに設けられ「八重洲口」と名付けられました。それ以後、八重洲口駅前地区が形成されるようになり、1954(昭和29)年には「中央区八重洲」の町名が正式に発足することになりました。
それが東京駅八重洲口(中央区八重洲1丁目)の正面から延びる八重洲通りの日本橋3丁目交差点に、八重洲のルーツであるヤン・ヨーステンを記念する碑が設置された理由です。
また、リーフデ号ではヤン・ヨーステンの上司だったウイリアム・アダムス(三浦按針)の屋敷は、室町に与えられます。その屋敷跡付近の路地は現在、「按針通り」と呼ばれていますが、それはまた後ほど触れます。
江戸一の繁華街と魚市場が同居した町・日本橋
さぁ、道を急ぎましょう。日本橋3丁目交差点から中央通りを左に折れ、日本橋方面に向かいます。するとすぐ右側に現れるのが、日本を代表する百貨店の一つ、日本橋高島屋(日本橋2丁目)の堂々たる偉容です。
1933(昭和8)年にこの地に完成した日本橋高島屋(京都発祥の高島屋が東京に初進出したのは1900年)は、昭和生まれの百貨店として日本最大の規模を誇ります。2009(平成21)年には百貨店建築として初めて、国の重要文化財にも指定されています。
さらに2004(平成16)年に竣工したオフィス&ショッピングの複合ビル『coredo日本橋』など、重厚な建物群が続くこのあたり(日本橋1丁目~2丁目)の様子は、かつての「通1丁目」界隈を描いた歌川広重の『日本橋通一丁目略図』(名作『名所江戸百景』の一部)を想い起こさせます。
『日本橋通一丁目略図』に描かれた通りの両側には、伊勢・近江・京都など上方の商業先進地をルーツにもつ名店の江戸店がずらりと並んでいます。さらに日傘を差しながら日本橋に向かう華やいだ雰囲気の女性たち、三味線を鳴らしながら道行く芸人たち、通行人に声高に物売りをする人々の姿など、実に活気あふれる日本橋界隈の様子が描かれています。
この浮世絵にはまた、当時の日本橋3大呉服店の一つとされた大店「白木屋」(のちの東急百貨店)も描かれています。
「coredo日本橋」は江戸時代の創業から300年以上も続いた、その旧白木屋(後の白木屋デパート→1999年閉店の日本橋東急百貨店)の跡地に出来た高層ビルなのです。
「coredo日本橋」(日本橋1丁目)を右側に眺めつつさらに通りを進めば、そこは「お江戸日本橋」!
1964東京五輪の際に建設された首都高に頭上を覆われ、今では常に日陰となってうずくまっているかのような印象の日本橋です。しかし、1911(明治44)年竣工の花崗岩製石橋は間近にみると実に立派です。首都高は確かに目障りですが、「橋のなかの橋」と称賛された日本橋の「格」と「品位」は、まったく失われていません。
そして橋の脇には「日本橋魚市場発祥の地」の碑があります。魚市場というと現代では築地市場を連想しますが、江戸時代初期(17世紀初頭)から、大正時代に築地市場(1935年に日本橋から移転完了)が出来るまでの約350年間は、江戸・東京の魚市場といえば日本橋でした。
全盛期には現在の日本橋室町1丁目から日本橋本町1丁目にかけて、日本橋魚市場は拡大しました。現在の日本橋三越の前から「coredo室町」(coredo日本橋と同系列のビル)の裏側一帯にかけてのエリアは、活気あふれる一大魚市場だったのです。
江戸の人口は日本橋魚市場が発足した17世紀初頭で15万人、18世紀に入ると一気に100万人に膨れ上がったとされます。魚市場もそれにつれて拡大していったわけですが、それらの人口規模をまかなえるだけの膨大な量の魚介類は、江戸前の海で獲れる分だけではとうてい足りません。
房州・上総・下総(千葉)や相州(神奈川)、遠州(静岡)・豆州(伊豆)方面からも海路で運ばれ、東京湾から隅田川、日本橋川をさかのぼって日本橋に届けられたのでした。
この日本橋魚市場のあった室町は、江戸時代初頭から今に至る古い地名です。京都の室町から付けられたという説、人がたくさんいた(群れていた)から「群れ町→室町」になったという説、単に村と同じ意味をもつ古語「むろ」から転じたとする説など種々ありますが、今もそのルーツは明確ではないようです。
室町に隣接し、市場が広がっていった本町もまた江戸初期からの古い地名です。しかし、本町という名の通り、商業地としては魚市場ができる以前から賑わっていたようです。
また室町1丁目には前述のように、「按針通り」という狭い路地があり、八重洲の地名の基になったヤン・ヨーステンとともにリーフデ号で来訪したオランダ人、ウイリアム・アダムス(三浦按針)の屋敷跡があります。
この按針通りの界隈には、江戸時代は多くの漁師が暮らし、江戸前の海と魚市場を盛んに行き来していたといいます。