日本時代の建物を残したい。台湾人の切なる願いの裏にある日台の絆
台北の西門町にある西門紅楼は、2016年に14ヶ月にわたる大規模な修復工事を経て、営業を再開しました。かかった費用は約1億8,000万円とも言われています。1908年に台湾初の公営市場として建設され、賑わっていた紅楼。
市場としての役目を終えた後は、映画館や劇場などとして利用されていましたが、大規模な修復後は外観はかつての八角楼そのままに、文化の発信地として営業、セレクトショップやカフェなどもテナントとして入っています。もちろん、台中、台南、高雄などそれぞれの地域に日本統治時代の建物は残っていますので、興味のある方はぜひ訪れてみて下さい。
話を冒頭の花蓮の検事長宿舎に戻します。修復完成の式典には、宿舎に最後に入居していた元検察官の陳木泉さんが出席したそうです。陳さんは高雄から式典に参加し、修復後の宿舎の中を参観して、「以前と全く変わっていないですね。いや、修復後のほうが以前よりも素敵になっています」と言ったそうです。
こうした歴史の証人は、時とともにどんどん少なくなっています。彼らが存命のうちに、こうしたニュースが報道されるのはとても嬉しく思います。彼らの経てきた苦難の経験があったからこそ今があるということを我々は噛み締め、次の世代に引き継いでいく責任があると、改めて気付かされ、気持ちが引き締まる思いです。
西洋は石の文化、中国は土の文化、日本は木の文化、台湾は竹の文化と言われていますが、台湾の竹文化としての文物は腐敗しやすかったせいか、あまり残っていません。そのかわり、台湾に残っているのが日本時代の建築です。また、柳田国男の民族学に影響を受けた「田園調査」も台湾で流行しました。
台湾に残った日本の遺産といえば、鳥山頭ダム、鉄道、道路、総督府などのほか、学校、宿舎、商店街の各商店、官舎などがありますが、その多くは戦後、「敵産」として国民党によって接収され、個人所有となりました。
戦中、米軍による台湾大空襲では、私の故郷である高雄県の岡山という地域は、台湾空襲の際、当時の帝国海軍航空隊最大の基地として爆弾の40%以上が集中しました。この時残った給水塔が、岡山のシンボルとして今でも残っています。
そして、私が小学生のとき終戦を迎え、日本人家族と入れ替わりに中国人家族が押し寄せてきました。中国人家族は、日本人が作り上げた緑豊かで清潔な宿舎などを、またたく間に乱雑な状態にしてしまったのです。大陸の人々は、島国の人々と物質面だけでなく、精神面でも大きな違いがあったことを、私はこの時知ったのです。
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