都市伝説まで生まれた、巨大すぎる「大船観音」の激動の歴史と魅力
波乱に満ちた観音像建立の歴史
この観音像とお寺には、非常に興味深い歴史があります。大船観音寺によると、この地に観音像を建立しようという計画が持ち上がったのは1927(昭和2)年のこと。
司法大臣、農商務大臣などを歴任した金子堅太郎(かねこ・けんたろう)氏ら当時の大物政治家らが「観音思想の普及を図り、以て世相浄化の一助となさん」と発起、募金活動が始まったのが発端です。
混迷した昭和初期の社会情勢を、このようにして乗り越えようとしたというのも、現代の目から見れば新鮮に映ります。
そうして1929(昭和4)年に着工するものの、ときは世界恐慌の真っただ中。
寄付金は思うように集まらず、資材不足などの影響もあり、1934(昭和9)年、観音像は輪郭だけという状態で工事中断に追い込まれてしまいます。
日本はその後、日中戦争、太平洋戦争へと突き進みます。
ところが戦後の1954(昭和29)年、未完成のまま放置されていた観音像が、再び築造に向け動き始めます。
当時の曹洞宗永平寺管長・高階瓏仙(ろうせん)禅師が中心となり、政財界からの協力を得て財団法人「大船観音協会」を設立、観音像は計画から約30年の歳月を経て、1960(昭和35)年に完成しました。
ちなみに、この高階瓏仙禅師、大船観音のすぐ北側の山にある曹洞宗のお寺「黙仙寺」の二世住職でもあったそうです(参考:『鎌倉の寺 小辞典』<かまくら春秋社>)。
さらにその後、参詣する信者たちからの要望を受け、1981(昭和56)年に財団法人は解散、現在の「大船観音寺」ができたということ。
荒廃した世の中からなんとかして人々を救いたいという思い、平和への願いが込められた観音像なのですね。
観音像はなぜ胸から上なのか?ウワサの都市伝説の真相は…
観音像の周囲を歩いてみると、白い肩の部分が地面から露出しています。
そして像の端から山の崖まで10mもありません。なんでも、このような立地条件で地盤が崩れやすいため、観音像が全身の立像でなく胸像になったとか。
ちなみに、国土地理院の標高地図で見ると大船観音寺のある場所は標高40数m。胸から上で全長約25mですから、胸から下の部分がこの40mちょっとの山の中に入っているように見えてしまう絶妙なバランスなのではないでしょうか。
また、標高10mほどの駅周辺から眺めるにも高すぎず、こちらもちょうどよい塩梅であることに思わずうなってしまいます。
「下半身が埋まっている」とのウワサが生じるのも不思議はないですね。
胎内巡りで、観音像を求めた人々に思いをはせる
大船観音の胎内巡りは、1階部分のみ可能です。胎内には、観音像完成までの記録写真や平和祈念の千体仏などが収められています。
資料を見ていくと、車両が乗り入れることのできないこんな山の上に巨大な観音像を造った人々の願い、熱意を感じて、改めて心が揺すぶられます。
美しいライトアップ、ユニークなInstagram投稿が話題に
大船観音寺では、恒例の仏教行事はもちろん、ライトアップイベントや平和祈念のキャンドルナイト、ウクライナ犠牲者供養なども随時執り行われています。イベント情報は同寺公式Instagramで確認を。
ちなみにこちらのInstagram、僧侶のみなさんの日常風景などもポップに投稿されており、SNSでもたびたび話題になっています。
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ますます大船の観音様に親しみがわきませんか?ぜひ実際に訪れて、そのまなざしに包まれてくださいね。
- 参考:国土地理院・地理院地図,『鎌倉の寺 小辞典』(かまくら春秋社)
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