渋谷に残された最後の「和の空間」。かつての花街・円山町の「粋」な街づくり
かつての花街のかたち
三業通りの「三業」とは大正時代に指定された制度で、料理屋、待合(茶屋)、芸者置屋の三つの職種を指します。花街はこの三業が集積する街(三業地)のことで、「検番」は三業に従事する業者が作る組合のような機能を果たしていました。待合は客が芸者さんを呼んで飲食・宴会などを行う貸席業で、芸者置屋は芸者さんを抱える派遣業(プロダクション)を行っていました。
花街としての全盛期とされる大正時代末期から昭和初期の円山町には、待合だけで100軒近く、芸者置屋130軒以上あり、芸者総数は400人を超えていました。現在は待合も芸者置屋もなく、数軒の料理屋(料亭)と、85歳で現役の小糸姐さんなど、わずか4人の芸者さんしかいません。
東京にはかつて、円山町とともに新橋・赤坂・神楽坂・浅草・向島などの三業地が各区にありました。新橋・赤坂・神楽坂などでは今も、三味線や舞をきちんと習得した現役の芸者さんが働いており、町内の料亭で開かれる宴会などに花を添えています。
料亭や芸者の数はまちまちですが、そうした街々においても円山町と同様、待合はすでになく、かつての三業地のにぎわいはありません。いずれもビジネス街化が進行して、街並みそのものもずいぶん変わりました。
そういう意味では円山町ほど、かつての花街の面影を残した街並みが保存されているところは、東京では他に類をみません。
ラブホテル街と化した円山町に起きた「変化」
街全体が昭和の時代にタイムスリップしたかのような雰囲気をもつ旧三業地の佇まいは、新宿区・神楽坂にも比較的よく残されています。
しかし、三業地から住宅街や商業地区の程よく入り混じった環境への転換が順調に進んだ神楽坂などに比べると、有名なラブホテル街が昭和40年代から50年代以降に形成された円山町には、正直、実態以上にどこか暗いイメージが醸成されてしまいました。
東急本店通りと道玄坂に挟まれた丘陵上の円山町と、丘陵の谷間に位置する神泉のエリアは、爆発的に都市化が進んでいった渋谷駅周辺エリアの中にあるにも関わらず、まるでエアポケットみたいに「和のテイスト」を濃厚にもった街並みが残されました。
そんな神泉・円山町地区にも、21世紀に入ってからは「変化」が少しずつ目立ちはじめます。円山町にラブホテル街が形成されたのは、当初は三業地時代に建てられた料亭や待合の建物をそのまま流用できたからでした。
そうした建物のオーナーの世代交代や、商売替えなどが進行するにつれ、昔ながらの黒板塀をもつ料理屋などの集まる雰囲気を適度に残しつつ、あいだにオフィスビルが建てられたり、オシャレな飲食店や若者に人気のクラブが集積していくなど、新たなにぎわいの種も少しずつ増えていったのです。
旧花街・円山町のエリアに当たる3つの町会が、懐かしいけれども古い響きをもつ「三業通り」の愛称を、公募で「神泉・円山 裏渋谷通り」へと変えたのも、そうした時代の流れを捉えてのことでした。
時代の波の間に埋もれ、長いあいだ停滞していた円山町の新たなまちづくり、地域活性化を本格的に図るには、今がチャンスだと地域の人たちが思い定めたのです。
かつてを想い再起を図る、円山町の人々
「三業通り」に替わる通りの愛称の公募には、691通の応募がありました。その審査が行われた会場は、先にもご紹介した、カフェ・ド・ラ・フォンテーヌでした。
「円山町に新たに進出してきて、頑張っておられる飲食店やクラブの若い経営者のみなさんなどから、円山町もそろそろ統一した新たなイメージを確立するべきだというようなご意見が、最近よく出るようになっていました。また町会役員も世代交代するなどして、今の時代に合った形での地域活性化をはじめようという気運が、盛り上がるようになってきたのです」
三業通りの新たな愛称を決める審査会委員を務めた円山町会長・大嶋正義さんはそう語るとともに、「まずは裏渋谷通りの名称を浸透させ、付随して旧円山町エリア全体の活性化を図っていきたい」と、将来的な抱負も披歴してくれました。
カフェ・ド・ラ・フォンテーヌでの審査会には、各町会役員に交じって、ユニークな方がボランティアとして参加し、司会進行役を務めました。グループサウンズ全盛時代の3大バンドの一つ「ザ・スパイダース」で、堺正章さんとともにMC&ボーカルを担当していた、人気タレントの井上順さんです。
昭和22年生まれの井上さんは、円山町の出身ではありませんが、カフェ・ド・ラ・フォンテーヌ主人の佐藤豊さんや、やはり三業通りの新愛称の審査員を務めた神泉・円山親栄会の河野豊副会長とは、渋谷区立松濤中学校の同窓生という仲。
30年ほど前に佐藤さん夫妻が開業して以来、井上さんは地域の人々の交流の場となっていったカフェ・ド・ラ・フォンテーヌにしばしば現れては、円山町の盛り上げ話に積極的に参加するようになったという「生粋の円山町ファン」です。
神泉・円山親栄会副会長の河野豊さんは、親子2代で円山町に店舗を構えていた下駄屋「金丸屋」の経営者兼職人でした。行列のできるお店として人気テレビ番組『マツコの知らない世界』などでも紹介され、最近大人気の洋食店「キッチンハセガワ」の大家さんでもあります。
そんな河野さんは「芸者さんが自分の店で造った下駄をつっかけ、リズミカルに、粋に、円山の町内を歩いていた姿が今も忘れられません」としみじみ語ります。
円山町に現れはじめた活性化への新たな潮流
これまでご紹介してきたように、神泉・円山町の新たなまちづくりや地域活性化への息吹は、メインストリートの名称を決定するなど、客観的にはまだ始まったばかりの状況といえます。
しかし「これまで連帯感が希薄で、新しいことをするのにも足並みがそろわなかった3つの町会が、合同でまちづくりや地域活性化に乗り出そうと決めたことだけでも、この地域ではとても大きな一歩なのです」と、佐藤さんは強調します。
実はこの構造は、全国各地でシャッター通りと化している中心市街地の衰退へのパターンと、同根の問題をはらんでいます。
常に活性化を図りたい次世代と「とりあえず食べられれば、冒険をせずに現状維持を図ったほうがいい」とする高齢化した現当主との考え方のギャップは、全国各地の商店街の後継者不足に拍車をかけ、活力喪失の要因の一つともなってきました。
その点において神泉・円山町地区は、確かに三業地としては衰退し、ラブホテル街などの「負の遺産」が残されているとはいえ、渋谷駅にも近く、商業的にも利便性の高い地域であるため、進出を希望する外部の資本は後を絶ちません。
そういう意味で外部資本の進出すらない地方都市とは、立場がまったく違います。「何もしなくても食べて行ける度合い」は、地方都市より遥かに高いのです。
しかし、それだけになお一層、みんなで心を合わせて踏み出した「一歩」は重く、「ここまでくるのに30年もかかりました」と佐藤さんは苦笑します。そして佐藤さんや町会の人々の思いには、今、新たな潮流と結びつきそうな気配が漂いはじめています。
外国人観光客から始まる「和」のまち
その象徴は今年4月1日に開業した「NADESHIKO HOTEL SHIBUYA(ナデシコホテルシブヤ・渋谷区神泉町10-5)」の存在です。
女性外国人向けのカプセルホテルと銘打ったナデシコホテルシブヤは、全館「和のテイスト」のイメージでデザインが統一されています。形式はカプセルホテルですが、日本旅館並みのおもてなしを用意し、館内では着物の着付け体験や、要望があれば着物を着たままの散歩もサポートしてくれます。
女性外国人向けが基本とはいえ、日本人の女性宿泊客ももちろんOK。1Fの居酒屋や地階のお土産ショップは男性も入館可ですが、今後は日本女性による「女子会の後の宿泊」などといった使われ方もされていくことが予測されます。
佐藤さんや神泉・円山町3町会の方たちは、渋谷に残された唯一の「和の空間」である円山町の今後の活性化事業の方向性として、2020年東京オリンピックを目前に、最近ますます増えつつある外国人観光客向けの発信を考えています。
ナデシコホテルシブヤのコンセプトは、まさにそれを先取り的に具現化したような趣があり、「今後は3町会としてホテル側との連携を図ることも考えていきたい」と口をそろえます。
その他、今年からは青山学院大学総合文化政策学科(鳥越けい子教授指導の鳥越ゼミ)の学生たちが、ゼミ活動の一環として円山町を舞台に、環境やアートなどと多角的に結び付けた新たなまちづくりの方法をフィールドワークすることになっています。
そのサポート役・相談役も依頼されている佐藤さんは、これを機会に学生たちの柔軟な感性で円山町の未来図を描いてもらったり、学生たちのアイデアで地域限定の土産物を考えたり、彼らの運営によるフリマを開催するなど、新たなにぎわいの種づくりを模索しています。
渋谷駅とその周辺では現在、100年に1度といわれる、大規模な再開発工事が着々と進められ、世間の耳目はその進捗状況にばかり集まりがちです。
しかし、今から130年ほど前に現在の盛り場・渋谷の出発点となった神泉・円山地区でも、規模や性格はまったく違いますが、新たなまちづくりへの気運が、小さな湧水の最初のひとしずくのように、静かに始まろうとしています。
それが、今後どのような形に結実化していくのか、興味は尽きません。
- image by:未知草ニハチロー
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