生涯で46回も引っ越し。江戸川乱歩の名作舞台を辿る東京地名散歩
【SCENE Ⅱ】 団子坂から御茶ノ水へ
『D坂の殺人事件』に初登場した名探偵・明智小五郎は、兵児帯を着た、頭髪がもじゃもじゃの青年(高等遊民)という設定でした。
まるで1946(昭和21)年に『本陣殺人事件』(横溝正史)で初登場する、名探偵・金田一耕助のようです。金田一探偵が最後までそのイメージを保ったのと違い、明智小五郎は作品の刊行が進むにつれ、どんどん洋風に、またダンディなイメージになっていきます。同時に明智の生活環境も急速に、和風から洋風へと変化していきます。
明智小五郎は『団子坂の殺人事件』(1925年=大正14年)当時は煙草屋の2階に住んでいました。上海に一時渡航した後、『一寸法師』(1927年=昭和2年)の事件を解決した頃からは、赤坂・菊水旅館を住まいとしていました。
そして明智の良きパートナー《少年探偵団》とリーダー・小林少年のデビュー作ともなった『吸血鬼』(1930年=昭和5年)では、明智探偵事務所(兼住居)が初めて登場します。
場所は御茶ノ水のモダンな《開化アパート》でした。
この明智の事務所兼住まいがあったと設定されている開化アパートとは、要は洋風でモダンな集合住宅を意味するものと思われます。そのモデルは1922(大正11)年に建設された、日本最初の洋式集合住宅「文化アパートメント」(旧文京区元町、現文京区本郷)ではないかともされています。
地上5階、地下1階、鉄筋コンクリート造りの文化アパートメントは、すべてが洋式、すなわちベッドやイス、テーブルを使う生活を前提にした設計がなされていました。その洋式度の高さは第2次大戦後にGHQの将校の住まいに使われ、好評を博したという事実が物語っています(文化アパートメントは1986年=昭和61年に解体)。
また乱歩はこの開化アパートの所在地を千代田区采女町としていますが、采女町は架空の地名です。
何はともあれ重要なのは、御茶ノ水という街の当時のイメージが、江戸時代以来の古風さを残しつつ、一方でこうしたモダンなアパートメントが建てられても決しておかしくないような、そんな和洋折衷の混沌とした(迷宮的な)雰囲気の街だった――ということなのかもしれません。
御茶ノ水という呼称は、江戸時代に誕生しました。JR御茶ノ水駅付近の神田川が、現在の渓谷のような形状に整備されたのは2代将軍・徳川秀忠の時代です。
その当時まで、付近一帯は神田山と呼ばれていました。しかし、神田山の北側にあった高林寺という寺の庭から湧く泉が、将軍献上用の水として採取されるようになったことから、御茶ノ水という呼称が生まれたのです。
それにしても御茶ノ水は、鉄道駅(JR総武線・中央線&地下鉄丸ノ内線)をはじめ、昔からこれだけ広範囲に、街のさまざまな施設や場所の通称として用いられてきたのに、住居表示の正式な地名として機能した歴史がないというのは不思議です。
現在でもなお、御茶ノ水の名称を建物の名称や屋号に使っている事例は、神田駿河台一帯から湯島の一部にまで幅広く及んでいるにもかかわらず、です。
例えば御茶ノ水の開化アパートを事務所兼住まいにして活躍していた頃の明智が、きっとよく立ち寄っただろうと思われる、御茶ノ水最大の名所・ニコライ堂(1891年=明治24年竣工、正式名称は『東京復活大聖堂』)にしても、住所は神田駿河台4丁目です。
ちなみにJR御茶ノ水駅の横から神田川を渡る聖(ひじり)橋は、1927(昭和2)年の竣工です。関東大震災後の復興橋梁として建設された、鉄筋コンクリート・アーチ型の橋は美しく、土木学会が選定する近代土木遺産にも選ばれています(現在は補修工事中)。
また聖橋の名称は、千代田区(神田駿河台)と文京区(湯島)をつなぐ区境の橋であると同時に、駿河台側のニコライ堂(東京復活大聖堂)と湯島側の湯島聖堂の2つの聖堂を結ぶ橋ということから、昭和初期に公募で決められました。
犯罪現場として乱歩作品にたびたび登場する本郷・上野・浅草界隈は、御茶ノ水の開化アパートから聖橋を渡り、湯島を突っ切っていけばかなり素早くたどり着けたはずです。明智小五郎にとって御茶ノ水の事務所兼住居は、職住接近好立地の物件だったといえます。