生涯で46回も引っ越し。江戸川乱歩の名作舞台を辿る東京地名散歩
【SCENE Ⅳ】麻布龍土町から麻布笄町・青山高樹町へ
旧麻布龍土町を西麻布まで歩き、笄(こうがい)坂を上っていけば、旧麻布笄町(現港区西麻布2~4丁目、南青山6~7丁目付近)にたどり着きます。西麻布(旧霞町)の交差点から旧麻布笄町、さらにその先の旧青山高樹町(現南青山5~6丁目)の高樹町通り(骨董通り)へと続く道は、かつて都(市)電・霞町線(1914~1967年)が走っていました。
このあたりは、怪人二十面相などがしばしば悪さを働いた地域として、読者の間では有名です。そして彼らが事件を起こすたび、明智小五郎は麻布龍土町の事務所から飛び出し、小林少年や少年探偵団の団員たちと事件現場に駆け付けるのでした。
笄町の地名の由来は諸説あり、付近を流れていた笄川に架かっていた笄橋から採られたとする説が有力のようです。その笄川についても由来は諸説あり、明確ではありません。
その代わり(!?)に、笄町には面白い怪異譚「麻布の大猫伝説」が伝えられています。江戸時代の瓦版などにも紹介されている話で、笄町のある大名家下屋敷に出入りしていた盲目の鍼医が、帰り道に行方不明になり、数日後に近くの畑の肥溜めに落ちていたところを発見されます。狐に化かされたのだと判断した下屋敷の人々が狐狩りの名人を集め、なんとかその犯人らしき動物を捕まえたところ、狐ではなく尾が二股に分かれた巨大な猫だったというのです。
猫の妖怪「猫又」を想起させる伝説ですが、当時の青山・麻布・六本木などは、武家屋敷がたくさんあったとはいえ、そんな妖怪が登場してもおかしくないほど、正真正銘の郊外地だったということでしょう。
そして電化が進んだ明治・大正・昭和初期にも、そんな昔日の名残が随所にあったからこそ、乱歩作品の悪役たちは、この地を犯罪場所に選んだのです。
笄町と違い、青山高樹町の地名の由来は、ハッキリしています。江戸時代のこのあたり一帯が河内丹南藩・高木家の所有地だったのです。そして1872(明治5)年に地名改正が行われた際、周辺の大名地・武家地なども合わせて高樹町になったとされています。
さらに港区史によれば、江戸時代から明治時代初期まで、高木家の当主の官職名・主水正(もんどのしょう)にちなんだ、主水町(もんどちょう)の通称もあったと、伝えられています。
それにしても現在の旧麻布笄町(現西麻布2~4丁目、南青山6~7丁目)、旧青山高樹町(現南青山5~6丁目)の界隈を、乱歩的世界を意識した視点で散歩してみると、この一帯ほど乱歩的世界にふさわしい場所もあまりないのではないかと、改めて思われてきます。
骨董通り(高樹町通り、南青山5~6丁目)やその周辺に並ぶ怪人二十面相好みのアンティーク専門店の数々。
岡本太郎作の奇想天外な美術品が、洋館的雰囲気の建物のなかに目白押しの岡本太郎記念館(南青山6丁目)。
乱歩が創造した各種の犯罪者たちにいかにも好まれそうな、古今の仏教美術の粋がワンダーランド的に散りばめられた根津美術館(南青山6丁目)の庭園。
レンズ・フェチの乱歩の好みにピッタリの、菱形レンズのようなガラスを組み合わせて建てられ、レンズ・ビルとでも呼びたくなるようなプラダ・ブティック青山店(南青山5丁目)の不思議な偉容。
さらにその先に目を転じれば、南青山2丁目一帯に広がる先人たちの安息の地、青山霊園の広大な空間……。
乱歩が旺盛な創作意欲とともに、現代に生きていたら、きっとこの地域を舞台に、また新たな作品を創造したに違いない。そんなふうに思えてくるのです。
※参考資料/『乱歩「東京地図」』(富田均著、作品社)/『僕たちの好きな明智小五郎』(別冊宝島)/『江戸川乱歩徹底追跡』(志村有弘編、勉誠出版)/『東京の地名由来辞典』(竹内誠編、東京堂出版)/『新文芸読本 江戸川乱歩』(河出書房新社)/フリー百科事典Wikipedia各種/『明治・大正・昭和世相史』(社会思想社)他
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